雲切童子の怪刀乱魔TOP

遣い手


タオに託す

このコーナーは私、つまり雲切童子のコーナーである。
であるから、当然執筆するのは私の権利でもあり、義務でもある。
しかし、実際に執筆、いや代筆しているのはタオである。タオも長い間代筆ばかりしているので、せめてこういうサイトを立ち上げて自分の文章を書こうとしたのだろうが、また代筆をすることになってしまった。

しかし、私は人間ではないので、タオが代筆をする羽目になるのは、致し方ない成り行きである。
と言っても、タオが神ががり状態になって自動書記を行うというわけではなく、私はタオに何らかのインスピレーション、手掛かりを与える。
実はこのコーナーばかりでなく、タオの書く文章すべてが、タオ自身の力で書かれる訳ではない。
タオは子供の頃から、「私、こんなに文章書けたかしら。ホントにこれ、私が書いたの?」ということがしばしばあったが、なかなか鋭い女だ。あのセクシーな文章を書かしめたのは私の仕業である。ここのところ人の代筆ばかりしていたので、だいぶ私の影響が薄くなって文章は下手になったようだが、まだ見込みはある。
書いているうちに私の影響がだんだん強くなり、しまいに私が本体になり、タオが影になってしまう日が来るだろう。

この自分であって自分でないという事態は、全ての人間……特に芸術、学問に拘わる人間全般に言えることであり、また当然のことなのだが、多くの平凡な人間は、そういうことに気がつかない。
タオは実社会では目立たない存在だが、タオと普通の人間を分けるものは、神と人間の拘わりとか、役割分担について速やかに認識することに習熟しており、自分の力の及ばない部分を直に認めることのできる点である。
人間を貶めるのは慢心である。何でも自分の力でできると思っている。しかし現実には、人間の力の及ぶ部分は少ないのだ。これは何でも神頼みすれば良いというのではなく、やはり神力を呼び込むのは、その人間の資質である。

何故私が出張ったかというと、こういうサイトには、時として人間の能力の範囲を越えた難問が寄せられることがある。そういう時私は、タオの能力を越えた部分で助言を与えることがある。
何故タオかというと、私は前生よりの拘わりで、タオを守護するように運命づけられているからである。
また、このサイトを訪れる人達もまた、タオや私と前生よりの因縁浅からぬ人々である。
数多いウエブサイトの中で、偶然にもせよ、この文章を読むということは、よほど深い「因」と「縁」がなければならない。まず日本語が読めるというだけでも、選ばれた存在であろう。


使い手を見た!

さてこのコーナーでは、主に仙道五術のうちの「山」と「命」を扱う。
他のコーナーで解説したとおり、「山」は武道、「命」は人の命運である。神霊的なことはこの全てに広くかかわってくるのだが、さしあたり「命」の範疇で取り扱うこととする。

今回は、先日日本で試合を行った、ヒクソン・グレイシーについて触れておこう。
彼は実は、単なる武道家や格闘家ではない。彼の手にかかった相手は、実は金縛り状態になって一歩も動けずに終わっている。
だがあまりに短時間で試合を終えてしまっては商売にならず、周りの人が困るので、時間稼ぎに幾つかの技を見せていたようだ。
一見したところ、彼は講道館の前田をルーツとする柔術の使い手のように世間で認識されているが、それは浅い見方である。柔術の技など、見物人の理解しやすいように、手続きとしてかけているだけで、実際は「方術」でもって指一本で片付けることができるであるから。

じつのところ、この方術というのは、全ての武道家、格闘家の見果てぬ夢であろう。
指一本で相手を金縛りにできたら、というのは格闘家、武道家であれば誰しも思うことで、この方術を身につけることができたらどんなにいいかと思う人が多数いるだろうが、コトはそんなに甘くない。
彼の練習、生活態度を見ただろうか。マスコミでおだてられ、毎日美味しいものを食べて自家用車を乗り回していては話にならない。行者の生活は厳しいものである。
山に入って鳥や獣と共に鋭い感覚を磨き、俗世間の穢れと遠く離れた山林の気を十分心身に漲らせて感性と超能力を磨き、たまに世間に下りて来ては強きをくじき弱きを助ける。それが本当の武道家、格闘家……いや行者(ぎょうじゃ)の姿であろう。ヒクソンはそれに近い生活をしている。これでは敵うわけが無い。リングに上がる前に既に負けている。

行者、武道家というのは本来似たようなもので、それに医者を加えて三者兼業というのが、武道家本来の姿なのである。現在でもその名残りはある。
柔道の先生はほとんど骨接ぎ(柔道整復師)でもあるし、逆に治療だけ習おうと思って柔道整復学校へ入っても、柔道が必須科目である。
治療を習いに行って、投げ飛ばされたり関節技をきめられたりしたのでは堪ったものではないが、これは日本の、不思議だが良い伝統だろう。いっそのこと、医師国家試験にも柔道、剣道、合気道など必須にしたら面白かろうと思うのだが。
軟弱な医者先生は戦々恐々だろうが、また医術の奥の深さがかいま見えて、新たに開眼する医者も多いかも知れない。
国家試験は冗談だが、医者で武道を嗜む人は多く、剣道連盟なども医者だけの組織がある。剣道を通じて方術に触れる機会があるかも知れない。


方術の数々

この方術は、またの名を遁甲方術といい、その応用である奇門遁甲は、諸葛孔明が使用したことでよく知られている。
この奇門遁甲を教えてくれという人が非常に多いのだが、過去も現在も未来も、断固として教える積もりはない。理由は技術的な問題でなく、心掛けの問題にある。
よく、「風水の吉方と奇門遁甲の吉方が違うのだが、どっちが正しいか」という質問をする輩があるが、こういう人間はえてして運が悪い。
奇門遁甲とは、天下国家、社会の一大事を占うものであり、個人の利益の為に使用するものではない。国家の命運をかけた緊急時であるのに、今夜こそは恋人とゴールインしたいだの、試験に受かりたいだのと、一個人のサイドから見た都合で使用するものではない。
九星気学、風水とは占った結果が食い違うに決まっている。
こういう占いマニアの根底にある思想は、「寝て棚ボタを待つ」である。棚ボタを求めて遍歴をしている。その結果、変な風水師の本に引っかかって西に赤い花を飾ったりしている。何の効果があるものか。
人間として大した価値もない者に、そう簡単に棚からボタ餅が落ちてくる訳がない。もし落ちてきたら、喜びも束の間、そのボタ餅を喉に詰まらせてあの世行き、というのがせいぜいだろう。よく肝に銘じておかれよ。

話はそれたが、この方術というのを詳しく知りたかったら、方術の集大成である「平妖伝」を読むのも一興である。興味津々、腹を抱えて笑いながら読みふけるうちに物知りになれること請け合いである。
「平妖伝」の訳本にも何種類かあるが、ここで妙に節約して文庫本を買ってはいけない。文庫本では佐藤春夫のものが近年出たが、これはお薦めできない。肝心な部分をはしょってある上に全体の構成にムラがあり、ちっとも面白くない。きっと佐藤春夫は途中で病気にでもなったか、訳すのが嫌になってしまったのだろう。
平凡社の「中国古典文学大系・太田辰夫訳」がお薦めである。この「平妖伝」を読むと、実にいろいろな方術が出て来るので順次紹介しよう。


「蟷螂拳」から戻れな〜い

「平妖伝」にも少し出てくるが、今回の締めくくりとして、中国拳法の方術について触れておく。
ジャッキー・チエンなどで有名になった「形意拳」というのがあるが、何でカマキリや猿の真似をしなければならないのか、疑問に思った方はないだろうか。
カマキリより人間の方が強いに決まっている。ムシ嫌いなお嬢さんだって、虫取り網とゴキブリホイホイを持ってくればカマキリなんて退治できる。普通の男なら一捻りである。
実はこの、動物の真似をするというのは、その動物の攻撃の仕方を真似るのが目的ではないのだ。
何の動物でもいいから、その動物霊を体に呼び込んで、人間性を捨て、動物の生命力と闘志、言い替えれば凶暴さをもって戦うのが目的なのである。できれば狂暴な動物の方が強いに決まっている。
これは実際に中国拳法で古来行われることで、武道家が行者と兼業になったというのもこの辺に理由がありそうだ。武道家の跡目争いも熾烈なものだ。
相手が猿になればこちらは狼の霊、相手も「負けてなるものか!」と猛虎の霊を持ってくれば、それならこっちはいっそのこと昇竜!というように際限なくエスカレートしていくこと必至である。これでは「白髪三千丈」の誇大広告が生まれるのも無理ないか。
日本にも「犬神使い」というオカルトチックな手法があったが、非常に危険なことだ。
なに?どういうふうにやるのかって?知ってるけど教えねえよ。元の自分に戻れなくなっても知らねえゾ。男の戦いとはかくも苛酷なものなのである。


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