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成田山と平将門の永久戦争



その初詣、ちょっと待て!

正月になると、日本人は急に信心深くなる。
三が日には大多数の日本人が、どこかの神社仏閣に初詣に行って、いくばくかの賽銭を投げ、家内安全、金融円満、当病平癒、受験合格、良縁成就、果ては会社の上司の左遷から行方不明の飼い猫探しまで、ありとあらゆることを頼む。

お参りの後は近くの屋台でおでんと熱燗でもやっつけるか、カミさんに譲ってお汁粉でも付き合うか、そんなことはどうでもいいが、問題はこの帰りに、思わぬ奇禍にあって、ニュース種になってしまう人がある。

三が日のニュースの中に必ず、一家揃って車で初詣の帰り、交通事故に遭遇するという事件がある。
この画面の中、大破した車中に、受けたてほやほやの成田山、又は川崎大師の交通安全のお守りが空しくブラブラしている、という光景をテレビニュースで見た人はないだろうか。
私は、よく見る。というより、そういうところばかり眼を皿のようにして注目しているのだが。

これはじつは、たまたま運が悪くてそうなった訳ではなく、当然といえば当然なのだ。
世の中には、偶然ということは一つもない。人間の眼には見えなくとも、すべての現象が有機的にからみあい、「因」と「縁」に応じて、起こるべくして起こっている。


成田不動とは何ぞや

どっかの風水のホーム・ページで、「東京の人が成田山に行くのは考えものだ。成田山は東京から見て北東にあり、北東というのは行き詰まった人が行けば良いが、これまで順調にいっている人が行くと、かえってゴタゴタを招く方位だ」という意味のことが書いてあったが、これは半分正しく、半分間違っている。

というより、精一杯ない智恵を絞ったものだろうが、如何せん人間の浅智恵でしかない。肝腎要の部分を抜かして、ただ方位のことだけを見たのでは何にもならない。「知らぬがほっとけ」といったところか。

ご存じの方はご存じだろうが、成田山新勝寺というのは神田明神と深い拘わりがある。というより、表裏一体の存在である。
神田明神とは、平将門を祀った神社である。これは平の将門の威徳を称える意味も少しはあるが、本来はタタリ鎮めが目的である。不審のある方は、何かのついでに神主さんに聞いてもらえば良いが、「明神」とつく神社は、祟り鎮めの神社である。
よく似てはいるが、「大明神」というのは特別偉大な神の威徳をあがめていう言葉で、「明神」とは全然違うのでお間違えのないように。

平将門の乱はあまりにも有名だが、大切な事でもあまり一般的に知られてない事実もあるので、いちおう整理しておこう。


相模太郎平将門(月岡芳年・1885)

天慶の乱とは、平安中期、朱雀天皇の御世に、平将門が関八州を制圧して親皇を名乗った事件である。京都政府はこれを、朝廷に叛旗を翻した逆賊とみなし、討っ手として藤原秀郷(ふじわらのひでさと・俵藤太)を差し向けた。

しかし平将門は東国では相当の威勢を振るい、なかなか屈服しなかったところから、京政府は人間だけでは足りぬと判断し、神霊的な手段に訴えて、その役目を京都広沢の僧寛明に命ずる。寛明は真言密教の僧だが、朝敵降伏のためと、京都高尾山の不動明王像と宝剣を捧持して成田へと向かう。
そして公津ヶ原に像を安置して護摩を焚き、二十一日間の修法に入ったところから、現在にいたるまでの、長い神霊闘争の幕が切って落されたのである。。

それは、祈祷修法のちょうど満願の日、天慶三年(940年)2月14日未申刻(午後3時ごろ)のことだった。
当日は朝からひどい荒天候で、およそ立ってもいられない、人も馬も吹き飛ばされるほどの北風が吹き荒れていた。
この風は、北に陣取った将門勢には好都合だったが、南から北に向かう秀郷勢にとってはこの上ない悪条件だった。
風上から放つ将門側の矢は、打ち手が少々ヘボでも疾風に乗ってほとんど百発百中。一方秀郷側の兵は眼も開けていられないほどの悪条件である。

一方公津ヶ原では、護摩の火が盛大に焚かれ、真言密教の修法が続けられている。
祈祷が最高潮に達した頃、突如として護摩の火の中に将門の姿が出現する。
一方、合戦場では不意に風向きが逆転し、優位を誇っていた将門勢は総崩れになる。いったん兵を収めて引き上げようと、クツワを返した将門の片目に、一本の流れ矢が突き刺さり、坂東のヒーローの最後となるのである。

役目を終えた僧寛明は、不動像を引き上げようとするのだが、像は磐石の如く動かず、長くこの地に留まって朝敵降伏の為に働くとの託宣があったので、その地に成田不動が建立された、というわけである。


日本の裏歴史の中でも最も有名な事件であるが、この記述は「将門記」を中心に、さまざまな資料をもとにまとめたもので、社会科の教科書では絶対こんな風には書かれないだろう。
もっとも成田不動側のことは成田山新勝寺の寺史をもとにしている。
だがこの事件は単純ではなく、歴史的にも資料を見ると、将門逆賊説と非逆賊説が入り乱れて、事件は俄然興味深い様相を呈してくる。


関八州の実態

この事件を読み込むには、当時の日本の社会情勢から把握しておく必要がある。
平将門の生地は現在の群馬県利根川付近だが、当時この一帯、坂東平野というのは京の統治の及ばない地域だった。「あずまえびす」の名の由来である。
これを屈服させるため、西方政権はずいぶん乱暴な政策を行った。当時、東国の果てを京の藤原政権の統治下に置くには、そうとう強引な手段が必要だった。しかしこれは、京から見れば政策に従わない蛮族を罰する行為だが、「あずまびと」側から見れば、完全な他国侵略である。その過程で筆舌に尽くし難い大量殺戮が行われたことは、「常陸国風土記」にも詳しい。

将門は支配階級の生まれだが、14、5才で父親を亡くし、母を含めて10人近い家族を養う立場にあった。このことが将門を、進歩的な思想と反骨精神を持った青年に育てあげることとなった。
当時の支配階級の私産とは、厳しい奴隷制度の上に築いたものだったが、将門は奴隷解放政策などに踏み切ったために、伯父国香との対立を強めていく。
この争いが国香殺害事件(承平の乱)へと発展するのだが、その実績から見ると、将門は地元では民衆のヒーローとでもいうべき存在であった。

まさに、京の一方的圧政に反撥を感じる人々の、反逆精神の権化ともいうべき存在だったのである。実際その人気は根強く、現代でも地元では、「将門さま」にご縁をつけようと、平将門ゆかりの地を名乗るのに非常に熱心である。
新勝寺の僧がご本尊にハクをつけようとして、「ウチの不動明王さまは、関東の逆賊を降伏なされた霊験あらたかなご本尊だ」といくら宣伝しても、庶民はよく知っている。
その逆賊というのが、藤原氏と京の支配から関東の庶民を守ろうとした英雄だったのでは、僧や京都政府の都合にばっかり合わせた勝手な言い種と思われても、致しかたないのではないだろうか。


成田参詣も命がけ

諸人成田山参詣之図(芳藤、1968)

その一つにこういうエピソードがある。
将門は神霊的な見地からすれば、成田不動の呪詛によって倒されたわけだが、利根川筋を下った所に手賀沼という地がある。
ここは将門を守り本尊とする廟があるのだが、この場所は成田不動へ参るための道筋にもあたる。成田不動の開帳日には他郷の人が参詣しようとこの地を通りかかると、それを阻止しようとする里人との間で、血の雨が降ったそうである。
またその先には「蓑笠不動」なる祠があり、これは成田不動になぞらえて里人がしつらえたものであり、通りすがりの地元の人々は、将門に煮え湯を飲ませた藤原秀郷と成田不動を嘲笑するために、この不動像に頭から唾や小便をひっかける習わしだそうである。
用事があってこの近くを通りかかり、尿意を催しても、すぐその場で用を足さずに、この場所に来るまでわざわざ我慢するそうである。それが嫌さに、不動像も蓑と笠を着用に及ぶ、というのが「蓑笠不動」の由来である。

また、近くの木野崎村字本郷という所には、不思議な祠がひっそりと立っている。
中には大黒天像が祀られているのだが、ふつう大黒天像というのは、頭に頭巾を被り、にこにこと笑った福の神と相場が決まっているが、この像は違う。総髪で両耳が隠れ、口をへの字に結んだ憤怒の形相である。「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ将門」である。地元では、この祠は夜しか拝まないことになっているそうだ。

元来、公の歴史というのは、時の支配者に都合のいいことしか書かれないものと相場が決まっている。この場合は藤原氏の都合だ。「古事記」も「日本書紀」も藤原氏御付作者の創作といわれる(私が言っている)。
こういうさまざまな歴史、状況を踏まえて、将門の祟りとその力は、脈々と伝えられてきた。近年では荒俣宏作「帝都物語」の下敷きともなった。

つまり、成田不動と神田明神は、敵対関係なのである。
この宿敵という関係には、微妙なものがある。敵でありながら表裏一体の関係で、相手が存在しなければ自分も存在しない、無関係でいたくともいられない、という関係である。これを逆縁というが、逆縁というのは無関係でいたくとも、必ず関係が出来てしまうものである。成田と神田は風水的にも鬼門と裏鬼門になり、この方位はまさに宿敵、逆縁、「an old enemy」というに相応しい方位である。
宿敵であるがゆえに、お互いその存在を認めざるを得ないというわけである。まるで、日本と日本から見て鬼門にある、どこかの大国の関係みたいではないか。

であるから、神田明神に行けば成田山の祟りを受ける。成田山に行けば、神田明神の祟りから逃れられない。ではどっちにも行かなければ良いかというと、そうは問屋がおろさない。この歴史的な因縁は、関東地方に住んでいれば、多からず少なからず関係してくる。しかも、先祖代々受け継いだ、血脈というものがある。


ご注意!

ここで聞き耳を立てて、というか眼を皿のようにして読んで欲しい。
「藤」のつく姓は、全て藤原氏の流れであるが、中でも「佐藤」姓は藤原秀郷の直系である。
全国の佐藤さんがた、もし成田山や神田明神にお参りしたことがあったら、それから何か変わったことはなかっただろうか。いや、全然なかったとは到底思えないのだが。この二か所には敵とも味方とも分かち難く、積年の執念と怨霊が蠢いている。

成田山は呪詛を目的で建立された寺、神田明神は祟り鎮め、関東総鎮守として建てられた神社である。初詣に行くような場所ではない。鬼門だろうが、裏鬼門だろうが、どっちの方位にあっても、めでたい場所ではない。
元来真言密教というのは、おどろおどろしい祈祷修法の宗教である。その根本経典の一つである「金剛頂経」などは、人糞で塗り固めた壇の上で、人間の頭蓋骨と大腿骨を使って行う修法が述べられている。未開地の蛮族も顔負けである。世間の人は、よくこんな宗教を拝めるものだ。
川崎大師も全国の不動信仰の場所も、真言密教、不動信仰の場所はその本質は似たようなものだ。

松本清張氏は先年、中国に視察団の一員として密教の研究に行かれ、「真言宗は新興宗教である」と断定しておられる。さすが慧眼の士である。この成果は「密教の水源をみる」(講談社)に詳しい。
読者諸兄も、もし知らずにナントカ不動に行ったから心配だという人があったら、ここは万能選手の観世音菩薩に中に入ってもらうことにして、家で大人しく唱名(南無観世音菩薩)でも朝晩唱えておられるがよかろう。細かいことは、弟子のタオに問い合わせていただいて結構。

「1999年ごろ記述」

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