どういう訳か、今までに一番リクエストの多いのがこれだった。他にこんなこと書く者がないからか。ま、少しでもお役に立てば幸いだが、「エッ、あそこに行っちゃった!」と驚いても後の祭り……。覚悟して読まれたし。
「成田山と平将門の永久戦争」でも少し述べたが、世の中には知らぬが仏ではなく、知らないと怖いことが如何に多いことか。
その中の代表が、神社仏閣の由来である。世間の人は、寺や神社というと、人の幸せを祈願し、国家安泰を祈るものと勝手な解釈を決め込んでいる。お人良しというか、単純馬鹿というか、何とも言いがたい現象だが、とにかく日本人は神社仏閣が好きである。道を歩いていて鳥居が立っていると、必ず中に入ってお札、御守りの類を買わないと気が済まないという者さえある。以下、よく覚えておかれたし。
○墓場……当たり前、と言うなかれ。世の中には怖いもの知らずというか、安かったから、と平気で墓を埋め立てた造成地の上に住む者がある。また、先祖の墓参りは当然のこととしても、自分の頭のハエが追えないのに、やたらに供養供養と他人のことまで心配をしたがる者がある。確かに墓参りは必要だが、一般人の力には限界がある。ましてその近くに住んだり、あまりに死者に意識を向けるのは如何なものか。
どだい供養というのは、命日に手を合わせ、御飯、茶、菓子、果物を上げて手を合わせれば良いというものではない。本当の供養というのは、よほど行を積み、死者の状態が見えるほどの行者でなければ出来ないものである。一般の人は自分で供養など出来ないものと知っておいた方が良い。引きずり込まれるのがオチである。
○明神社……この名の由来をご存知だろうか。明神とつくのは、祟り神である。大明神というのは純粋な敬称であるからお間違えなく。例えば「鹿島大明神」といえば、鹿島の神の大威徳を称えて呼ぶ敬称であるが、たまに略して「鹿島明神」ということもある。明神社というのは、神通力のある存在が恨みを飲んで死んだりした場合、「○○さま、どうぞ一般民衆に祟るのはやめて、この地で安らかにお眠りください」という目的で祀ったものである。これは辞書、事典に載っていない常識だが、神主さんにでも聞いてみられるとご存知の筈だ。
日本でも世界でも、祟り神を祀った場所は多い。関東地方の代表が前に述べた神田明神。
これは秀郷に討たれた平将門があまりに祟りをなすので、神として祀ったものである。つまり平将門が、関東は自分の領地だと主張してその為に殺され、その執念がいつまでも解決しないので、逆に「そんなら、アンタにこの領地を上げるから、自分で守ってくれよ」とばかりに関東総鎮守として祀ったといえば分かりやすいか。
しかし、祟るぐらいだからそれなりに力はある。私もあんまり喧嘩はしたくない。
後は著名な神社では、出雲大社も、祟り神という説がある。あっちこっちにあるので、近づかないに越したことはないのだが、これらの神が産土だったり、現在住む地域の土地神だった場合は難しい。土地神と喧嘩してはやってゆけないので、まあほどほどに、というところだろう。
○不動明王社……これはあちこち有名な仏閣があるが、困ったものだ。東京の警視庁はパトカーに高尾不動の札を貼っている状態だし、成田山では節分の豆撒きにタレントを使う。そのタレントが、成田不動で壇上豆撒きでテレビ放映の栄誉を担うのと引き換えに、それからどんな目に合うか、よく観察していて欲しい。ま、信じられなかったら自分で試してみられるのも宜しい。
警視庁も、オウムのマークと同じマークをパトカーにつけていたのでは、同じものが行ったり来たりしているのに気づかないのだろうか……。国松長官の払った犠牲はどうなるのか。
○稲荷神社……この問題は非常に難しい。稲荷信仰というのは、確かに利益を出すのは早い。しかし浮き沈みはそれ以上に激しい。一般の人は積極的に近づかないのが無難だろう。
しかし、商売繁盛の為にはどうしてもこの神の力なしには成り立たない、という業種もある。京都の伏見稲荷神社の繁盛振りたるや、自分の目で見ないと信じられないだろう。とにかく、日本の有数企業が、こぞって貢物をするのだから。
この京都伏見稲荷というのは、稲荷神社の中では特殊な立場にある。伏見の中にいろんな派閥があって、しょっちゅう勢力地図が書き換えられている。だから、ある一企業から見ると、昨日は守護が頂けたが、今日は祟ったという現象が出やすい。信仰するかしないか、まあ、自分で決めてもらうしかないだろう。
○護国神社……ここまで行ってはいけない場所に入れると非情なようだが、事実だから仕方ない。
護国神社というのは、戦死者の御霊を祀った社である。これはあくまでも人間、それも非業の最期を遂げた人間であるので、丁重に弔うのが本筋である。自分の頼みごとをしたり、守護を願うものではない。
神社側では「英霊は神になられた」などと、都合の良い解釈をつけるようだが、私の観察した範囲では、力のない普通の人間が神として祭られると、非情に苦しむようだ。見ず知らずの人間に拝まれて、自分の罪業の上に他人の罪業まで背負わせられては、堪ったものではないだろう。そっとしておくのが一番。
まあ、家族の人は出来うる限り、香華を手向けて、読経三昧にしてあげなければなるまいが。
○新興宗教……いわゆる新興宗教といわれるものと、近年になって新・新宗教と名づけられたものがある。これはもちろん×××。
ただ、始末が悪いのはニューエイジ系の、宗教ではないが宗教性を帯びた場所だ。どうもこれが怪しい。勉強、修行と称してジワジワと宗教性を吹き込まれているうちに、いつの間にか本物になって、属する団体名まで変わっている。
本来、この世に宗教性を帯びないことがらはないので、無宗教、無宗教性ということはありえず、幸不幸の元はここから始まる。甘く見てはいけない。「宗教はイデオロギーだ」ということを言う者もあるが、私に言わせれば、イデオロギーが宗教なのだ。ま、こんなことで議論してもしょうがないか。
それでは、いったいどこに行けば良いのか、ということになるが、一番確実なのは、どこにも行かずに家で修行していろ、という、つまらない答えになってしまう。
それではあまりに無愛想だから頭を捻って、行って良いところというと、まあ、「毘沙門天」「妙見菩薩」」「八幡神社」「観世音菩薩」ぐらいか。「弁天社」「龍神社」も良いが、所属する神霊系統を身極めるのが難しい。素人には無理だろう。当方にいちいち尋ねられても困るが。
ただし、「八幡」「観音」にはまたしても難しい問題がある。八幡神社には歴史的に、必ずキリスト教の因縁がつきまとう。
よく、吉祥天には妹の黒暗天がセットになっているようなものと思えばよいだろう。これには歴史的な経緯があるので、なかなか解決はしないだろう。キリスト教についてはまた別項に回すが、ここでは良くないものとして取り扱っていると解釈してもらって差し支えない。何故かというと、私がそういう立場だからだ。八幡神社には難しいいきさつがあるので、良い面だけを頂く為には、題目を唱える必要がある。何故かというと、私がそういう立場だからだ。
また、観音堂についても難しい事情があるというのは、特に四国札所巡りなどに多い例で、巷にはキツネやタヌキの化けた観音が、あまりにも多いからだ。
突如として光輝く観世音菩薩が顕現し「私は宝来国よりやって来た、有難い千手千眼十一面観世音菩薩である。村を守って進ぜるから、何の何兵衛の娘を差し出せ」というので、修行を積んだ坊さんが「エイッ」と気合を掛けたら、尻尾が出てきた、というようなものである。
常識からして、薄汚い、朽ちかけたお堂なんかに、あんまり位の高い神仏はいらっしゃらない筈だ。だいいち、顕著なご利益があったら、信者がお堂ぐらい建てるだろうに。こんなお堂は「雨月物語」の舞台にでもなっているのがせいぜいの筈だ。
小さな新興宗教にいる生神さまは、まずこの手合いだと思ったが良いだろう。大ダヌキの元に配下の小ダヌキが集まっている程度だと思って、タヌキ社会の方が居心地が良かったら、仲間入りをすれば宜しい。
◆2000年1月1日付で、宝島社から「カルトの正体」(別冊宝島編集部編)という本が出た。
これまでこの種の本は、硬派のライターが一人で汗まみれになって手弁当で取材したルポがほとんどだったが、この本はマスコミに出た学者、記者、当事者が書いたものをまとめたものなので、タイムリーで充実した内容となっている。文庫なので、どうも妙に宗教的なものに引きづられ易い人、違う視点からものを見てみたい人などは、ぜひ一読して欲しい。必ず何らかの意味で役に立つだろう。
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