仏教の基本知識


◆仏教の概要◆

基礎知識のない方の為に、簡単に仏教の概要を述べておきます。
筆者はあまり適任ではないのですが、なぜこんなことをするかと言う点が重要なので、先にそれを述べておきます。

たぶん、こういうコンテンツを読まれる方の中には、このサイトの内容を熱心に読んだり実行したりなさる方もいらっしゃるでしょう。
しかし中には、内容が少し物足りない、仏教の概要が分からないので、もう少し詳しく知りたいと思って、ネットやら本やらでいろいろ調べてみられる方もあるでしょう。これが曲者です

もちろん、このサイトに書いてあることが正しいか、妥当か、自分で納得なさる為に、更に詳しく、自分で調べてご覧になるのは、良いことです。

ところが、仏教や宗教の世界というのは、あまりに広く深く、また落とし穴も沢山あります。
調べるという行為によって、これまで知らなかったいろんな世界や思想に触れます

これが、かえって、信仰の本筋から皆さんを引き離してしまう原因にもなりかねません。ミイラ取りがミイラになりかねないのです。

仏教の本を沢山出していらっしゃる学者の中にも、こういう人がしばしば見受けられます。
仏教に関ることで生計を立てているが、自分は仏教を信じておらず、外道とされる宗教に凝りつつ、仕事で仏教の解説をしている学者がいらっしゃるのです。(仏教世界では仏教を内道、それ以外を外道と言います)
しかもそういう人が、最高学府の仏教哲学の第一人者ということになっていたりするので、世の中分からないものです。

もちろん、とても立派な学僧も沢山おられるのですが、そういう方の多くは出版や著述が本業でない場合が多いので、実際は外道に入っている人の書いた仏教の本やサイトのほうが、見つけやすかったりします。
そういうものに多く触れた結果、周辺の知識ばかり増えて、信仰という本筋から離れてしまう人が余りに多いのです。

筆者の知り合いにも、神仏にかかわる本を沢山出している著名人ながら、書く文章の中ではしばしば大切なことを遊びで茶化したりして、結果的に読む人を本筋から引き離すような行動を取っている人がいます。信仰者ではなく、神仏を素材にしたオカルトマニアみたいなものでしょうか。

それはそれで、その人の生き方だと思いますが、こういう人達を見ていると、沢山知識があるのがいいことだとは言えない側面があります。
筆者の周辺からそういう人を出したくはありません。あまり余計なものに触れた結果、皆さんにこうなって欲しくはないので、探し回らずに済むように、最低限のことをここに書いておきます。

とにかく、「法華経は信から入る」ということが大切です。
「イワシの頭も信心から」と言う意味ではありません。本物と偽物を嗅ぎ取る本能がしっかりしていないと、金襴で飾り立てた見掛け倒しの偽者にひきずられやすく、信じ続けるにはそれなりの徳力と縁がないと難しい、ということです。これが「法華経の身読(しんどく)」ということです。

また、縁というものも、重要な要素になります。この文章を読んでおられる方は、それだけでもう、仏教に強い縁があるわけですが、信じきれずに離れてしまう人は、それだけ縁が薄いと思うしかありません。

ですから、最低限の仏教の概要が分からないままに、ただ法華経のことだけ知ってれば良いのだろうか、という不安を払拭する為に、最低限のことを書きますが、それから先は皆さんにお任せします。


◆仏教宗派と分類◆

現在の日本の仏教界には、おおまかに分けて、以下の宗派があります。


他にも「宗」のつく宗教はありますが、ここでは話を大手の伝統宗派に絞ります。
だいたい全部、大乗仏教ですが、一部で小乗仏典(現在では小乗と言わず、原始仏典と言います)を使うものもあります。

また、以上に挙げた分類の他に、「顕教(けんきょう)」「密教(みっきょう)」という分類があります。
これは、あまり簡単に説明しすぎてもいけないので、文字通り「顕(あらわ)れる」「密(ひそ)む」の違いということにしておきましょう。

顕教は誰にでも分け隔てなく開示され、密教は宗派の認める資格のある者だけが触れることができる、ということです。
誰でも触れられる、と思うと、あまり有難く思えず、普段は隠されているものを「あなただけにこっそり教えます」と言われると貴重に思えるという、人間の心理を衝いた布教方法かもしれません。
マニアックな人が好みやすいわけですね。

もう一つの分類は、ご存知の「大乗(だいじょう)」「小乗(しょうじょう)」の分類です。
これは、仏教を悟りの境界へと人を乗せて運ぶ乗り物に例えた名称です。
大乗は沢山人を乗せられる大きな乗り物=つまり、女性や子供や老人までも一緒に乗せて救うことができ、一方、小乗のほうは少ししか乗れない=出家得度した人だけが救われる、という意味です。

ですから、世俗のスタイルをしている人の中には、仏教の勉強をしている人、していない人、いろいろあるわけですが、小乗仏教を受持している人は必ず、出家スタイルをしているわけですね。

◆生前戒名のはなし

一般の皆さんはたぶん、出家しているという意識はないと思います。
しかし、家が仏教の人は、亡くなったらみんな戒名を貰います。本来これは、おかしな話です。

戒名(かいみょう)というのは、受戒(じゅかい)を受ける、すなわち、仏弟子となり仏の教えと戒律を守って生きる、という証に受けるものなので、生きているうちに受けておくのが、本来の姿です。

よく、生きているうちに戒名を貰うのは縁起がいい、などと言いますが、縁起の話ではなく本来は当たり前の話です。亡くなってから慌てて戒名をつけて貰うのは、いわばおまけで勘弁してもらって、やっと仏弟子に入れていただいているので、本当は手遅れかもしれませんよ。

◆お坊さんの服装の話

大乗仏教は出家してもしなくても、在家のままで、男性でも女性でも子供でも老人でも、誰でも受持、受戒でき、一方、小乗仏教は、出家得度した人だけを対象にするのだと述べました。

出家の服装とされる衣や袈裟は、独特です。特に袈裟は布を接ぎ合せた独特の形をしていますが、これは元々、お金をかけずにぼろ布や端布を集めて継ぎ合わせた名残です。
いわば、出家したら身を飾ったり贅沢をせずに、質素に暮らしなさい、という意味でのユニホームなのですが、どちらかというと、小乗仏教の服装です。
在家と区別する為に、わざわざ違う服装をしているわけですから、大乗仏教とは違う考え方です。在家に混じり、親しみやすい形で教えを広める、というのは、菩薩様の役割ですが、菩薩様は美しい衣装を身にまとってアクセサリーもつけていますね。

ですから、日本の仏教は、所依の経典(しょえのきょうてん=よりどころとする教えが書いてある経典)が大乗仏教で、スタイルは小乗仏教という、ややアンバランスな恰好になっているわけです。

法衣や袈裟を着ても、他と区別するということで、別に悪くはないと思いますが、現代ではいわば、袈裟や衣は職業的ユニホームであって、本来はそんなに特別なものではないような気がします。
ただ、法衣袈裟一式に何百万かかりました(なのでご寄進を)、なんていうのは馬鹿々々しいと、個人的には思います。


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