仏典の言語と翻訳の話


1、仏典の原言語

編纂された地域により、大別して二種類あります。


2、インドから中国へ

インドから中国へ仏典がわたり、そして中国から日本へと仏典がわたってきたわけです。
ここでは、ややこしくなりますし、日本とはあまり関係がないので、チベット圏の話はしません。

インドから中国へと仏典がわたった際に、非常に重要な人物が、これに関わりました。
サンスクリット語から漢訳される時に、鳩摩羅什という一種の天才が訳に携わったのです。そして、漢訳仏典は独特の高みへと上り詰めていることを、私達は忘れてはなりません。


3、鳩摩羅 什(くまら・じゅう=クマーラ・ジーヴァ)という天才の出現

鳩摩羅 什とは、4世紀=5世紀の中国六朝時代の学僧です。
インドと中国のいわゆるハーフで、亀茲(きじ=クチャ)国に生まれました。

「阿弥陀経」「摩訶般若波羅蜜経」「妙法蓮華経」「維摩経」「大智度論」などの、最も大切な経典の翻訳者として知られ、独特の逸話が沢山あります。
彼は、若い時に母と一緒に出家して原始仏教やアビダルマ仏教を学びました。亀茲国は呂光に攻略されましたが、鳩摩羅什はその才能を見出され、国師として迎えられました。

ここで面白いことは、姚興は鳩摩羅什に還俗をさせていることです。その真意は分かりませんが、破戒した鳩摩羅什は、女性を迎え入れると同時に、仏典の漢訳に従事するようになりました。
なにしろ、篤い仏教信者である国王というスポンサーがついているわけですから、昼は膨大な仏教経典の漢訳に精を出し、夜は酒池肉林の宴という、極端な二面生活だったという話が伝えられています。
そんな中で、優れた漢訳仏典が成立したことは、非常に興味深いことです。

鳩摩羅什の訳には、大胆な意訳や創作の後が見られると言われます。しかし、鳩摩羅什の手により、何とも微妙な奥行きを持った漢訳仏典が成立したことは、後世に大きな影響を与えました。


4、鳩摩羅什 と玄奘三蔵の対比

インド伝来の仏典の二大翻訳者である、鳩摩羅什 と玄奘三蔵、その二人の仕事を比べると、いろいろ興味深いことがあります。

鳩摩羅什の訳を旧訳、唐の玄奘三蔵の訳を新訳と呼びます。
法華経に関しては、2世紀の竺法護訳のものがありますが、これは「正法華経」です。

それに対し、5世紀の鳩摩羅什の訳は「妙法蓮華経」です。
「正」でなく「妙」としたところに、大きな解釈の違いがあるように思われます。還俗してから法華経の翻訳に携わった鳩摩羅什 には、何か目覚めるものでもあったのでしょうか。

著名な「般若心経」にしても、一般に流布しているものは玄奘三蔵訳のものです。しかし、鳩摩羅什訳のものもあります。玄奘三蔵訳では「観自在菩薩」になっていますが、鳩摩羅什訳では「観世音菩薩」になっています。

言葉の上では、観世音菩薩の原語の「アバロキテシュバラ」は「自由に見るもの」という意味なので、原語に忠実なのは「観自在菩薩」のほうで、観世音菩薩は誤訳だと言う人もあります。

しかし、鳩摩羅什の仕事の成果と学識から見て、単なる誤訳と切り捨てるには、「観世音菩薩」という文字には余りに広く深い意味がこめられています。
この「観世音菩薩」という訳は、一種のインスピレーションと見ないと、単なる正確な逐語訳を見るだけでは、仏典の成立過程から考えても、言葉を通じて表される哲学や思想が、無意味になってしまうのではないでしょうか。
筆者は、般若心経も鳩摩羅什訳のほうを取っています。
興味のある方は、鳩摩羅什をテーマにした本は沢山あり、コミックもありますので、読んでご覧になると良いでしょう。

5、大乗仏教における日本の役割

さてここまでは、インドから中国へ大乗・小乗仏教がわたり、鳩摩羅什という天才の手を経て大乗仏典の漢訳が成し遂げられた、という話です。
その後、日本へ仏教伝来となるわけですが、それが何年なのかとか、朝鮮半島を経てきたとか、そういう話はあまり重要ではありません。

日本からすると、中国は仏教文化に関しても大先輩であり、仏教伝来の足跡を訪ねるツアーなんて企画などもあったりします。

しかし中国では、文化大革命で伝統文化が破壊され、仏教もその影響を免れませんでした。現在、日本の風水学なども、参考書籍はほとんど台湾本に頼っている状態です。

中国では現在、行き過ぎた経済成長に翳りが見えだし、宗教を求める声もあるようですが、如何せん国の規模からして、いったん破壊してしまった宗教の復活は困難です。また、国そのものが共産主義である限り、公に宗教がその存在を認められることは難しいでしょう。
宗教と言っても、儒教、道教、仏教いろいろありますが、文化大革命以後に育った人々は、何を求めたらいいのかさえ、よく分からない現状ではないでしょうか。

そういう諸事情を鑑みつつ、周囲を見渡すと、古代中国で編纂された大乗仏教が公に存在するのは、日本だけなのです。現代の仏教世界では、日本が想像以上に大きな存在と役割を占めているのです。



◆大乗非仏説など

駆け足でしたが、おおまかに妙法蓮華経を中心とした観点から、日本の仏教の概要を述べてみました。

少し余計な話ですが、大乗仏典は釈迦の入滅後にどこかで勝手に編纂されたものであり、釈尊の直接の教えではない、という説があります。これを「大乗非仏説」論と言います。
大乗仏教は釈迦の直説ではなく偽物で、小乗仏教のほうが本物だという説です。

実際には、釈迦の存在していた時期には文書化はされていないので、経典は全て暗記・口伝です。
どの経典も全て釈迦の入滅後に弟子が編纂したものなので、その真偽は確かめようがありません。

大乗仏教側は、経典の中に、時代を経るに従って、大乗仏教が貶められたり偽物が現れるという予言があるので、それが大乗仏教が偽物ではないという証拠だと主張したりしますが、筆者はこれも少々苦しい弁明ではないか、と思います。
どれが本物か偽物か、古いか新しいかなんてわからないのですから、今あるものをそのまま評価すればいいような気がしますが、学者の論争は果てしがありません。


◆カルトの発生要因

仏典には「経・律・論」の三種があることを先に述べました。
その中で、「律」にウエイトを置きすぎた解釈が出てくると、それがカルトの発生につながることがあります。

例えば、私有財産の禁止とか、生き物を殺してはいけないという戒律も、カルトに利用されたりもします。
大乗戒は、布教する場合でも、自分から出かけて行って相手を論破してはならない、という程度の戒律です(法華経では安楽行と言います)。しかし小乗戒には、男性僧に250戒、女性僧に350戒の戒があるわけですから、拡大解釈で悪用されてしまう場合があります。
故事で有名な、虎に自分の身を投げ与える布施行だとか、虫も殺してはならない、という極端な戒律になったりしています。

これは、仏教が成立した時期があまりに古く、きちんと国の法律というものさえもなかった時代だったことが原因しています。人を殺してはいけない、というのは、私達は当たり前のように感じますが、放っておけば他人を殺して物を奪う、ということが日常茶飯事だった時代なので、そういう戒律が必要だったのです。

しかし現代でも、他宗教の人間は排斥する宗教もありますし、同じ世界に属していても名誉殺人なんてものもあります。
私達は、そういう異世界のことも知らねばなりませんし、自分の身の周りも(抽象的な意味で)、もっと整理する必要があります。無宗教を通すにしても、他の人間の宗教感覚にどう付き合うかを、決めておかねばなりません。
是非、信仰を持ちなさい、とは言いませんが、何らかの宗教センスを身につけておく、というのは、一つのバリアを築くという意味もあります。その答えは仏教を学ぶことで得られるでしょう。


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