題目の話2〜題目と因果〜


◆南無=オームの効用

そこで、今回のテーマである、肝心の題目の話に入りますが、南無とは「オーム」の音写です。
発音からするとちょっと印象が悪いかもしれませんが、オウムとは区別することにしましょう。ここはあくまでも、言葉の本来の意味の話です。

この「オーム」というのは、お寺の鐘の音を思い浮かべてもらうと、分かりやすいでしょう。あの大きなお寺の鐘を撞くと「ゴオウオォォーーーン〜〜〜……」という感じで響きますが、この音を文字に書き表したものが「オーム」です。

除夜の鐘などはよく、煩悩を払い清める為に煩悩の数だけ撞くということになっていますが、それも一般的な話としても分かりやすいものです。

題目の南無=オームの音は、また違う意味があります。
鐘を撞くということは音を生ぜしめますが、音を生ずるということは、空気中に波動を生じるということです。
この鐘を撞くことで起こす波動は、高い空中から地中まで、またその間に暮らす生きとし生けるもの一切を同じ波動に巻き込みます。

同じ波動でつながるということは、陰陽学で言えば、いわば天地人を一体化せしめることでもあります。
一体化せしめて帰依する…何に帰依するかというと、「南無」の下に「妙法蓮華経」をつけるので、「南無妙法蓮華経=法華経に帰依する」という意味になります。
妙法と一体化するので、当然、煩悩も浄化されるということになりますが、単に鐘の音で煩悩を払うという解釈とは、ずいぶん趣きが違いますね。


◆妙法・蓮華・経ということ

さて、「妙法蓮華経」ですが、妙=奥深く微妙不可思議な働きと言い、日蓮上人の御書には「妙とは蘇生の義なり」とあります。法はサンスクリット語でダールマです。
ダルマ=達磨とは、一般に手足のないだるまさんとして親しまれていますが、元々は、秩序、法則と言う意味から、仏教語としては「理法」とか「真理」の意味に使われます。

縁起もののダルマは、達磨大師が悟りを開く段階で、面壁九年の座禅によって、手足が腐ってなくなってしまったという伝説に基づいたものです。

ダルマ=法にはいろんな意味づけがなされますが、仏教ではいわゆる「三宝=仏法僧」の中の一つです。
仏の説かれた教え、つまり経典に書かれている内容を指します。この場合は、ただ教え=法という意味ではなく、宇宙の根本原理とでもいうべき様々な意味合いが含まれています。

次に、「蓮華」は植物のハスの花のことですが、穢れた娑婆世界の中に仏性(ぶっしょう)が開くさまを、泥沼から美しいハスの花が開くさまに例えたものです。

ここまでは一般的に知られていることだと思いますし、宗教団体の教義やブログで幾らでも出てきますが、もう少し踏み込みます。
「妙法蓮華」とは、二つの部分に区切られます。「妙法」で一つの意味をなし、「蓮華」でまた一つの意味を形成します。

誤解を恐れずに言えば、妙法とは形而上の観念(理法)であり、形而下の具体的な形として蓮の華があると解釈してもいいでしょう。
しかし形而上・形而下という言葉もなかなか厄介なので、精神と肉体、形のあるものとないもの、という風に、簡単に分類しない方がいいと思います。

これらの対比は相反する別のものではなく、同じことを表と裏から見ているようなもので、ひっくり返せばまた表と裏が入れ替わることになります。この場合は、妙法という理法を原因として、蓮華という結果が出来、また蓮華という具体的なものによって、妙法という観念的な悟りを生むことができるという、お互いに循環の構造を持つ一体の関係です。
また、「妙」が「法」にかかる修辞であり、「蓮」にかかる修辞が「華」なので、妙と華は修辞で、法と蓮は被修辞でもあります。

これを因果の理法でみますと「妙法という因によって蓮華という結果を生む」…「妙法蓮華=因果の理」(ことわり)を現しているわけです。

その妙法蓮華の因果の理法を編んだ体系が、「経」というわけです。
経とは、地球の経度緯度の「経」で、バラバラなものごとを集め、纏め上げて、一つの体系にまとめあげる、という意味です。

「妙法蓮華」というメインテーマを体系として編み上げたものが「妙法蓮華経」で、題名・題目にはメインテーマがしっかりと示されている、という訳です。

ただし、この五文字はあくまでも理法とその構成を表しているので、学ぶ者から見ると、多少物足りない面があります。
妙法蓮華の体系(経)は厳としてそこにありますが、まだその経に私達は縁づいていません。
そこで、帰依する縁をつけたのが、「南無」です。教えは教えとして厳然とそこにあるのですが、誰もそれに触れて学ばなければ、宝の持ち腐れです。

日蓮上人は「妙法蓮華経」に「南無」をつけることによって、私達に縁付けをしてくださったのです。
こう書いてしまうと実に簡単ですが、題目の七文字には、けっこう壮大な意義が含まれているのですね。図解すると左図のようになります。


ごくごく、簡単に分かりやすく言いかえると、「なむみょうほうれんげきょう」とは、「美しい花を咲かせる為の根本原理を体系的に説いた教えに、帰依します」という意味なのですね。


◆因果の法則とは

ついでですので、因果の法則を書いておきます。下の⇒の通り、もともと何かの因(原因)があり、そこに縁ができると、結果が生じてその報いを受けるわけです。
因から果が生じるわけですが、これをもっと詳しく言いますと、正確には因縁果報です。

日常的な因縁果報の一例を述べると、例えば少し酒癖の悪い人がいて(因)、その人が忘年会に行きます(縁)。そうするとつい酔っ払って上司と喧嘩してしまったとします(果)。その結果、大騒ぎになって会社を首になってしまったというのが(報)です。

違う例では、何か良い知識を得て立派になりたいと常々思っている(因)人がいるとします。その人が法華経の話をしてくれる人に出会い(縁)、いろいろ学んで立派な人格を形成します(果)。そうすると本人も周囲も、心の迷いもなく生活も安定して幸福になれると言うわけです(報)。

当たり前のような話なのですが、因果の法則はこのように構造が決まっており、一定の条件が必要なのです。
「因」があり、そこに「縁」が加わらないと、結果は出ず、報いもないと言うわけです。
酒癖の悪い呑んべいも、忘年会という縁がなければ喧嘩にまで至らなかったわけですし、立派になれる素質のある人でも、誰も法華経の在りかを教えてくれなければ、何となく空虚な思いでいるだけでしょう。
しかし、因は常に縁を呼びますし、因と縁が結びつけば必ず果が実って報いを受けますので、因縁果報はセットなのですね。

何事につけても、なるべく良い縁に出会いたいのは人情です。しかし、因がなければ縁も出来ませんし、当然、果報もありません。このサイトに関係することを言えば、吉方とか凶方に行くというのは、因ではなく既に果報の「果」ぐらいの段階なので、吉方に行けるような因縁を生じさせることを考えないと、いくら方位だけ調べても無駄ではないでしょうか。
ですから、筆者は、方位の吉凶を調べる前に、運勢とかそれまでの蓄積が大切だ、と繰り返し述べているわけです。

吉方位に行くことを因だと思っている方もいらっしゃるようですが、もっと運命の根本のところを見ないと、祐気取りのことばかり考えているのは、種蒔きをせず枯葉ばかりの果樹園で、必死で果実を探しているようなものです。
しかし、良い縁に出会いたければ、その元に正しいものの見方考え方という、「因」を持つことが必要です。幸福の種を育てるには、同じサイクルで因縁果報を繰り返しているばかりでなく、どこかで良いことの種撒きをしないと、次の段階には進めません。

少し難しかったかもしれませんが、普通の仏教の解説書よりは、噛み砕いて記述した積りです。意外と、題目の意義をきちんと述べてある本は少ないので、参考になればと思います。
題目とは、たった7文字の中に、このように沢山の意味が凝縮してあるので、ただ盲滅法読んだり書いたりするのでなく、何時かは自分の中に、生きた言葉となって蘇らせることが出来るように、どこかに留めておいていただければと思います。


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