近所の大学の学園祭に出かけてみた。筆者の出ているストリートダンスレッスンの講師が、この大学のダンス部OBなので、ダンス部の発表を見るのが第一目的である。
その他、バザーの様子を見たり、最近の大学の雰囲気はどんなものか、との興味半分である。
ダンス部の催しはなかなか白熱していた。プロのダンサーになったOBが何人もいるし、現役の部長も学生ながらミュージシャンのバックダンサーを務め社会人相手のクラスを持っていたりと、実力派ぞろいだったので、お目当てのダンスは堪能して帰ってきた。
在校生対OBのダンスバトルはなかなか迫力があったし、合間に学生プロレスを見たりもして、こじんまりしたキャンバスながら、なかなか面白かった。
しかし・・・40年もの開きがあるので比べるのはおかしいのだろうが・・・何か物足りなさを感じてしまうのは、世相なのだろうか。
筆者は団塊の世代で、大学には行っていないのだが、何故か友人は全共闘ばかりだし、現在接する大学生というと、道場関係で体育会系の人間ばかりだ。なので、このキャンバスの雰囲気を見て、あまりのお行儀の良さに少しびっくりしてしまった。
まあ、そんな感想は、六大学でも見て回ってから言うべきなのかもしれないが、そういえば少し前に早稲田の図書館に用事があって行った時にも、なんだか似たような感じだった。
早稲田と言えば、前にヒロスエの入学騒動の時にも、「ヒロスエがあっちに移動すれば学生の群れが一緒にドッと移動し、ヒロスエがこっちに来れば学生もドッと移動して・・・全く今の学生はアホ面下げて・・・」と、早稲田の講師と笑って話していたのを思い出す。
ダンス部は元気がよく飛び抜けてセクシーだし、他の部を回ってもみんな礼儀正しいし、まあ、大学のカラーっちゅうものはあるだろうが、しかし・・・ここまでまるっきり政治色がないってのは、ちょっとビックリ。
別に、コイズミ政権批判とか北朝鮮拉致問題とかブッシュ批判とか打ち出して、ケンケンゴウゴウを期待しようなんて思ってはいないが、もう少し、なんか刺激はないのか・・・?
しかし、大学の合気道部にしても、「体育会出身だと就職に有利なので」という動機を聞くことがあり、(そんなもんなのかな・・・?)と不審に感じたことはあったが・・・やはり世相なのかもしれない。
確かに世相が反映するというのはある。よく言われるのは、私たち団塊の世代は、高度成長期に社会に出たので、読みが甘い、ということがある。読みが甘く、考えも甘いらしい。言われてみれば確かにそうだ。仕事なんて溢れ返っており、どこの業界でも引く手数多だったので、不景気になってからはどうもピンと来なくて、対処のしかたが遅い。
その点、今の学生なんかはけっこう考え方が現実的でシビアだな、と思う。私達は青臭い理想を掲げて論争したりするのが得意だし、それが学生の特権みたいに思ってる節もあったが、こんな世相で社会に出てゆく学生達は、そんなことには興味もないだろう。
しかし・・・気になる。
何故なら、私はどうしても、こういう若者達の根っこにある問題を持ち込まれる立場にあるし、鑑定などをしているとよく出会う問題がある。
いわゆるニートとか、その予備軍と思われる若者の内包する問題である。
全くピント外れかもしれないし、堂々巡りではあっても少しは問題の周辺にいるかも知れない。とにかく、筆者が肌で感じるこれらのことを少し述べてみよう。
前にも別のコーナーで書いたと思うのだが(どこだか不明)、「自分探し」と言う問題がある。
「私の適職は何でしょうか」
ごくありふれた、当然のような問いかけだが、占い師ではない一般の人はこれに対してどういう答えを用意できるだろうか?
「好きなことやったら?」とでも言いますか?
それで「特別好きなことはない」「何が好きなのか分からない・・・」とでも言われたら?
事実、多くの若者が(一つ、何か特技や趣味を持つか・・・)と習い事などを始めた結果、そこでの人間関係に悩んだり、無理に習っていても面白くない、という局面に出会う。
「じゃあ、やめたら?」と言っても、なかなかやめる決心もつかないでいる。
占いの世界では、人間を何種類かにパターン分けして、どんな人に対してもいちおうの回答を準備してあるようだ。(ようだ・・・などと、プロが曖昧なこと言っちゃいけないけど)
例えば、四柱推命でこの星の多い人はこういう適性がある、九星でこの星の人はこの業種など・・・
しかし、その分類に応じて職業に就いたとして、皆、自分なりに十分に仕事に生きがいを見出し、充実した人生を送っていると言えるだろうか?
政治討論の時に、誰か政府の偉い人がニートの問題について「現在の社会は、若者に対してやり甲斐のある職場を与えていない。だからニートが増えるのだ」と答弁していたが、この答弁にどれだけ現実味があるか・・・私は答弁があまりに宙に浮いていたので、呆れてモノが言えなかった。
社会全体から見ると、長引く不景気の為に生活の基盤が崩れて自殺に走る中高年が増加しているというのに、やり甲斐のある職場だとか自分らしさとか言ってる場合か、という、現実的な側面がある。
しかし、現代の社会構造の中では、いちおうの生活ができていても、それに満足せずに(もっと違う自分があるのではないか)という潜在意識が多くの若者の中に渦巻いているのは、ありありと見える。その受け皿が、海外青年協力隊であったり、とってつけたような語学留学であったり、漠然とした転職であったりする。
筆者は社会構造や対応策を論じる立場ではないので、筆者に対して多く投げかけられる問いについて、筆者なりの正直なところを述べたい。
海外生活に漠然と憧れることから始まり、「今の職場の環境が合わないので転職したい」「いつ、どのような方面・業種に行けば、充実感のある自分らしい仕事ができるか」「私の適職は何ですか?」という問いがしばしばある。
方位のことは別にして、これは一見もっともな問いのようだが、根本的に少し違う部分があるのだ。
運命学と言うのは、人の持って生まれた素質や傾向を読むことはできるし、そこに何らかの方向性を示すことはできるが、それは具体的な業種であるとは限らない。だいいち、自分で会社を選んだとしても、そこで採用されるとは限らない。結婚と就職が相手のあることなのでベストは難しい、と言われる所以である。
例えば、である。人のことはよく分からないので筆者を例に取れば、文章を書く、という、割りにはっきりした適職・・・ではない・・・目標とか傾向が最初からある。上手下手はともかくとして、物心付いた頃から本の虫になってしまい、日常本を読むことと、将来は本を書くことしか念頭になかった。もちろん文章を書くと言っても、いろんな分野があり、自分では脚本を書くのが好きだったので、ある時期にそういう学校に行った。
もともと、作家という職業は大学や専門学校で習ってなるものではないという認識が強かったので、いろいろ波乱万丈のうちに、違う仕事ばかりしていたが、心の底では文章を書くのだ、という方向性を持ち続けていた。よくありがちなマスコミ志願者ではない。
しかし、文章を書くことを職業として成り立たせるのは、そう簡単ではない。そこで、いろんな形で遍歴していた訳だが、どういう訳か、紙の活字の世界で仕事をしていた時には、かなりの文章を書いたものの、自分のものとして発表する機会を得なかった。高卒では普通では使ってもらえないような仕事もけっこうしていたが、どういう訳かタイミングが合わずに、自分の本は出さなかった。
だいたい、自分で本を出そうという気持ちがまるでなかったのかも知れない。
妙な言い方だが、文章を書くことそのものは捨てていないのに、本屋に行って本の洪水を見ると、この中の何冊かに自分の名前が入ることにどれだけ価値があるのか?と、妙なシラケ方をしていた。
懸賞小説で何度か候補に上っていたし、後には編集をしていたので、そのまま続けていれば伝手を頼って本を出すことはできただろう。しかし、何故か本を出すことにあまり情熱を感じられなかった。
妙に風向きが変わって来たな、と感じたのは、パソコンをいじりだしてからである。自分は本当は紙の本よりもコンピュータが好きだったのだな、と、その時発見した。血筋かもしれない。家の男は、全員が電気とコンピュータ関係である。
パソコン雑誌にも少し投稿してみると、そのほとんどが掲載される。これは今まで、新聞雑誌に投稿してもほとんど音沙汰なかったことから考えると、不思議なぐらいである。
それでホームページを作ってみて今に至っている。分野はというと、結局は運命的に常に引っ張られてしまいがちだった宗教や占いの分野になっている。
同じ文章を書くにしても、コンピュータを使って発信する方向に縁があった訳だ。これがあと10年早く生まれていたら、皆さんに自分の書いたものを読んで貰う機会はなかったかもしれない。パソコンが簡単で安くなるよりも、わずか3〜4年早くパソコンを使い出したお陰で今のこのサイトがあると思っているし、ここらへんは微妙なタイミングとしか言いようがない。
それとは反対に、どうしてもタイミングが合わないな・・・と自覚していることがある。それは芸ごとである。父は電気技術者だが、その実家は清元の家元なので、芸ごとには縁がありそうなものだ。事実、学校時代は音楽はズバ抜けていたし、星回りから言ってもやたらに歌手の多い年回りなので、音痴の心配をしたことはない。
ところが、歌を歌うのは面倒に感じてあまり好きではない。おまけに咽喉が弱い。ハマッてしまったのはブルースハープで、小学校時代にあまりに上手になってしまったので、周囲から「絶対にプロ奏者になりなさい」と言われ続け、先生を探したが、筆者の小学校時代にブルースハープの先生がいるわけがない。何せ、日本のブルースハープ界の草分けが自分と同世代なので、自分で草分けにならない限り先生は存在しなかった筈だ。おまけにロックバンド作っちゃおうというぐらいにはまったC・C・Rのデビューも、20代になってから・・・
もう一つ、ダンスがめっちゃ好きで、ソウルダンス全盛期には毎晩夜が明けるまで踊っていられたのだが、20代でソウルダンス草創期になり、それからファンク、HIP
HOPとは、どうも時代の流れにあってないとしか言いようがない。
今では気を取り直して、自分の息子よりも一回りも下の子を先生にして教わっているが、もうちょっと(20年ほど)ずれていたら、違う道に進んでいる可能性もあると思う。でも何せ、50代で再開したダンスなので、昔踊っていた時ほど自由に新しいステップが飛び出す感覚が掴めない。まだ体がほどけてこない感じ・・・でも、幾ら若い子に教わってると言っても、感覚が馴染むのは早いので、落ち着いて楽しんでいますが。
トシトシたって、ジェームズ・ブラウンがバリバリの現役で、「Black Eyed Peas」の「Monkey
Business」なんかに参加してるんだから、筆者がオバハン扱いされるイワレはありませんがね。(何を強がってるんだ?)「They
Don't Want Music」で踊って下さい。あと、「Give it up or turn it a loose」なんかも。8ビートだからHouseかな。
こういう話になると、どんどん脱線して手前味噌になっちゃって申し訳ないですが、ここで言いたいこと。
やりたいことと、向いたことは違う。それと、仕事というのは、自分が職業を選ぶのではなく、職業から選ばれる側面が強いように思う。用意された椅子だか穴(?)だかがあって、どうしてもそこにはめられてしまうような気がします。
シナリオとか演劇にタッチしていた時のことだが、作家先生も役者さんもミュージシャンもプロデューサーも、口を揃えて言っていたことは
「才能のある奴は、どんなに抑えても、必ず出て来る」ということだ。
これは何の世界でも同じだろう。役者や作家でなくとも、普通の仕事でも、天職といえるほど向いた職業がある人は、放っておいても、その場所にいつの間にか収まってしまうものだ。
しかし、これを違う側面から見ると、「私の適職は何でしょうか」と尋ねなければ分からない人は、残念だが適職というものはないといったほうが早いかもしれない。実は一般の多くの人は、はっきりした適職というものを持っていない場合が多いのだ。
能力のタイプによって、「何でもいちおうこなせる人」とか「こういうやり方が得意な人」というのはある。しかし、この「能力」と言うのは、芸術家や技術者といった、特殊な技能や才覚とは別の物と考えたほうが良い。一般企業の中にあって、細かいことは苦手だけど人に会って交渉するのが得意ならば営業力に回れば良いし、一人で継続努力するのが得意な人は、事務でもなんでも、一人でコツコツ仕事のできる環境にあれば楽にこなせるという、方向性や行動のしかたのことだ。
どんなに小さくても一国一城の主でないと気の済まない人は、たとえ屋台を引いてでも独立起業しようとするだろう。しかし、一日キーボードを叩いている事務をやらせたら、ギブアップするかもしれない。それは、何の業界にあっても同じことだ。
一般の人の適職、適業とは、多くの人が漠然と期待するように、今までとは違う新しい生き生きとした自分が発見できるようなことではなく、あくまでも一つの企業の中でどういう形態なら収まりが良いか、一種の行動の傾向のことではないだろうか。これはあくまでも、筆者の説なのだが。
厳しい言い方かも知れないが、何かの分野に対してはっきりした特性を持っている人は、まず自分の適職を人に尋ねるなどということはない。自分で早くから分かっているし、尋ねるにしても、「独立してフリーになるのは何時が良いか」「これが職業として成り立つか」という問題提起になってくる。もちろん、職業として成り立たなくとも、それが不適ということではないけれど。
だから、筆者から見ると、適職が何なのか、と大人が今更悩むのは、少し無駄なことに思えてしまうのだが、ちょっと不親切な答えだっただろうか。結局は、生業(なりわい)として与えられた業務を、どれだけスムーズに成し遂げられるか、という問題になってくるのだ。
誰でも知っている著名な例だが、豊臣秀吉が木下藤吉郎時代、信長の草履取りをしていた時の逸話がある。ただ草履を揃えて差し出すだけでなく、すぐに履いても足が冷たくないように、懐に入れて草履を温めていたのが信長の目に留まった、というエピソードだ。
これなどは、普通ならば100%でよしとする仕事を、120%とか130%にして遂行しているわけだ。そこまでいかずとも、90から100を目指せば良いので、何も変わったことをする必要はない。出る杭は打たれるが、これは少し出ている杭のことで、豊臣秀吉の草履取はあまりに極端に抜きん出ていたから打たれなかっただけで、普通はそこまで頑張らなくても良いのではないだろうか。
ただ、平々凡々と人と同じことをしていても、やはり質の違いというものはある。
草履取は極端な例かもしれないが、同じことをするにも気持ちよくするのと嫌々するのでは、非常な開きがある。それも、何に対して差が出るかというと、周囲ではなく自分自身のありかたに差が出てきてしまう。気持ちよく一日を終えた人の顔はスッキリしているけれど、不平不満を増長させて時間を過ごした人の顔には、嫌なものが残ってしまう。何も人以上のことをする必要はないけれど、今よりも環境の良い職場を他に求めるよりは、自分で環境よくするほうがずっと早道ではないだろうか。
そう、自分の一番身近な環境は、自分自身の体と心なのだから。
現在の職場や環境が自分に合わない、恵まれていない、と思う人は、三つの選択肢がある。まず最初に、嫌々ながらしていた仕事に対して、少し気を入れてみる。嫌々ながらしていたのでは、どんな楽しいことでも、面白くないタダの仕事になってしまう。趣味を発展して仕事にした人が往々にして言うことだが、「仕事にしてしまうと面白くない」
これではつまらない。
二つ目は、気を入れて丁寧にしても、全くそれが何の役にも立たないような環境ならば、生活の為と割り切って、嫌なことは極力考えないようにし、CMのように「5時から人間」になってしまうことだ。生活の為に働いていると割り切れば、多くの人がそうしていると思う。しかし、給料ぶんの仕事はちゃんと返すようにしないと、目に見えない借金を作ってしまうことになるので、あまり手抜きをしてはいけない。
第三には、そんなに嫌なら、いっそのことサッサと辞める。ただし、別のもっと居心地の良い職場が見つかる保障はどこにもない。ほとんどの場合、文句言わず過ごす人はどこに居ても気持ちよく過ごすものだし、常に不平不満を持つ人は、どこに居ても何かしら不平の種を抱えているものだ。100%ということはあり得ない以上、どこかで折り合いをつけなければならない。
あまりに環境が悪いので見切りをつけるとしても、自分が口実を作って逃げを打っていないか、客観的になることが必要だろう。
また、今んとこ特に何もないけど、吉方などでもっと良い職場へグレードアップしてみたい、というあなた、贅沢言っちゃいけません。先ほど言ったように、もっと適した職場があるならば、自分で欲を張らなくとも、自然とそこへ収まります。何も風水や気学に頼る必要はないし、あなたが大器ならば向こうから迎えに来てくれるでしょう。自分から好条件を望むよりも、今の職場に十分過ぎるぐらいのお返しをして、そこで出る余力は無形の貯金に回したら如何でしょうか。
風水サイトで教えたり鑑定をしたりといった「いわゆる占い」に関わる部分を除いて、家族や友人や稽古やトレーニングといった、筆者の住む現実世界は割りにアクティブな世界のせいか、こういった自分探し的な迷いの多い人は、比較的少ないように思う。
道場のメンバーにもいろんなタイプがあるが、大きく三つのタイプに分けられる。まず多いのが、本職を持っていて、その本職をよりよく遂行する為の力をつける修行の一環として、武術を稽古しているタイプ。各界でも一癖ある人達ばかりで、この道場が梁山泊と言われる所以だ。
次に、自分の本領は武道にあるが、しかし武道で生活することは当てにせず、武道の稽古をしやすいように自分の時間を多く取れる職業を選択しているタイプ。これがその次に多い。
最後に、特別に何で生きるという目的が定まっておらず、武道の稽古を通じて何かを発見したくて稽古に通っているタイプ。このタイプはバイトをしている場合もあるが、生活が変わると稽古に来なくなる場合もある。
他にもいろんなタイプはありますが、段位が欲しいとか趣味程度というタイプは度外視することにします。
三番目のタイプの人達は、ある意味ではニート予備軍なのかもしれないが、世間で言うニートと違うのは、自分探しの為の足掛かりを、自分なりに捕まえる努力をしていると言うことだ。その足掛かりがどんな結果をもたらすかは知らないが、とにかく、自分なりに行動を起こしている訳で、一般的に言うニートとは違うと思う。海外青年協力隊に行ってまた舞い戻って来る者も少なくないが、それはそれで、チャンスがある限りは気の済むまでやればいいと思う。
しかし、筆者の生息する世界で、武道家やダンサー諸氏やシンガーや作家、医師、治療士、税理士その他を見ていると、何かの才能があるということは、生活と言う面においてそんなに幸せなことだろうか?と思うことがしばしばある。特に適性を見出せない人達は「そんな才能があるなんて、なんて羨ましいことだろう」と思うに違いない。
しかし、才能ある彼らは、その才能故に人知れず辛酸を嘗めなければならないケースがあまりに多い。特に芸事に志す人の苦労は見ていても並々ならぬものがある。もともと芸ごとなんて、家が資産家で遊んで暮らせる人でないと無理、と相場が決まっていたようなものだが、昨今はちょっと芸達者だと、それで一旗挙げようなんて気にもなりがち。
筆者の周りにも、武道家としての信念を通す為に、同期性が各界トップの座に上り詰めているのに、早朝から築地市場で荷車を引いてバイトしている師範、嵐の日に生徒が一人も来ないのに雑巾掛けしてマットを敷き一人で素振りをしている指導員、交通費にもならない時給で初心者相手にステップを踏むダンサー、男と別れても別れてもその痛みを歌い続ける歌手・・・そんな人達にも迷いがないと言ったら嘘になるだろう。そんな人達の迷いや痛みを土台にして、私達は文化の豊かさや多彩さ、人間の無限の可能性を享受することができる。
この前もジムのダンスインストラクター(本業?はサラリーマン)が「上司から残業頼まれたんだけど、このレッスンがあるから『ちょっとトイレ行ってきます』と言って出て来ちゃったよ。早く戻らなきゃ」なんて笑っていたが、稽古ごとではよくある場面だ。
トイレ口実はちょっと極端だが、大事な行事の為に稽古を重ねていても、当日仕事が入ってしまった時にどうするか?<仕事と趣味と、どっちが大事?>と言う、世間では簡単な問題が簡単ではない。晴れの舞台の裏側は悲惨なものだったりするが、結局は、全て自分で責任を追わなければならない。
彼らの痛みは部外者には分からないだろうが、筆者は険しい道と承知で歩いている彼らを、密かに応援したいと、いつも思っている。
そんな人達は、テレビや映画や活字の中だけでなくどこにでもいるし、そんな小さな発見が、我々の平凡な日常にも、微かな光を投げかけてくれるかもしれない。稽古事ごとを例に取ったが、仕事でも日常の衣食住でも、どこにでも小さな光輝は転がっているものだ。そんな小さな輝きを見逃さないようにしていれば、形は同じであっても同じ日常ではない。
誰だって輝くことはできる。しかしそれは何も、今とは違う形を無理に求めることではなく、自分の内部から出てくる輝きである筈だ。それは芸術家でも一般の人でも同じことだ。そんな風に思うと、平凡であるということの意味も、また違って見えてくるかもしれない。
<2005年11月記>
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