著名な南北相法の解説を随時書いていますが、この南北相法にはもう一冊の続編があり、その名を「相法極意修身録」と言います。
人相判断というのは、下世話な言葉で言うと、当てモノ、予測です。しかし何かの傾向や未来を当てたとしても、それが良いものであるとは限りません。
良いことだけ信じて悪いことは信じなければいい、という方もありますが、それでは何にもなりません。特に良いことなどなくても、無事に過ごせればそれはそれで幸福なことですが、変事が起こってはすべて壊れてしまって、安穏とはしていられないものです。
しかし悪い未来を予測しても、無闇に慌てふためいたり悲観してしまうのは、得策ではありません。運命を前にして一番大切なのは、運命が悪い時にどう振舞うか、その身の処し方です。
その回答に迫ろうというのが、この「相法極意修身録」です。
身を修める為の相法の極意ですから、単なる人相占いの類ではありません。
その内容は、既にタイトルに示されている通りです。
「食は運命を左右する」ですから、内容はだいたい分かると思うのですが、原本が古くてわかりづらい部分もありますので、面白そうなところをピックアップして、もう少し噛み砕いて解説してみたいと思います。
私たちの体は、食によって作られます。体だけかというと全くそんなことはありません。体というのは精神と一体であり、肉体と精神のありかたによって運命が作られるわけですから、肉体だけ偏重でも精神だけ偏重でも、困るわけです。
健康は失って初めてその有り難さを実感する、と言いますが、体力が弱ると精神力も弱りますし、精神的ストレスが溜まると、それに連れて、肉体の健康も損なってしまいます。そして、肉体と精神との状態がすなわち運命、ということになるわけです。
そこで、しっかりとバランスの取れた質の良い食事をして、肉体と精神の健康を保つことが大切、となるわけですが、この「バランスの取れた質の良い食事」というのがナンなのか、いまいちはっきりしません。
栄養学ではなく運命学の話ですから、単に五大栄養素とかいう話でもありません。もちろん、グルメや贅沢の話でもありません。
相法極意修身録の最初には、こう書いてあります。
・古人の曰く、天に無禄の人を生ぜずといえり。貴賎とも各々分限に応じ、天よりあたうる所の食物は、ことごとくその極りあり。このきわまりあるを以って禄という。
即ちおのれが食、天に極りあるを以って無禄の人を生ぜずという。これを以って人は天禄を得ると言う。これをみだりに喰い費す者は、天よりあたうる綱紀の内欠けるなり。凡そ生あるものに食定まらざる者なし。即ち生命とともに得るものは食なり。故に命あれば食あり。食あれば命あり。これによって命は食に随(したが)う。ここを以って俗に命は食にありといえり。然れば食は命を養うの本にして、生涯の吉凶悉く食より起る。唯、恐るべきは食なり。慎しむべきは食なり。鳴呼、食たり。
これをかいつまんで分かりやすく言いますと、どんな人も、自分の分際に応じた食を天から与えられている。それゆえ、自分の割り当てぶんの食を無駄にしたり、割り当て以上に欲張ってむさぼるのは、天の規律を破るものである、ということです。言い換えると、人によって食事の量には限りがあり、制限されているということでもあります。
ただ筆者は、上の文面をそのまま現代語にして皆さんに読んでいただこうとは思いません。何故なら、時代背景が全く違うので、少し補足説明が必要だと思うからです。
「食」を「食事・食物」と書き換えてしまっている現代語訳の本もありますが、それだけでは理解不足になってしまうのではないかという気がします。
食は確かに、人間の生命を維持する基本的で大切なものですが、現代では先進国の人間は、文字通りの「食べるもの」が無くて困る、ということは稀ではないでしょうか。お金を出せばまず確実に食物は買えますし、十分な食事とは反対のダイエットにお金をかけている場合もあります。
地球規模で見ると、飢えは解決されていませんし、文字どおりの「食事、食物」が重大問題であるのは間違いありませんが、この一文を読んでいる方々は、食物が手に入らなくて死にそうだ、という方は少ないでしょう。
そこで、上の原文の中で、「食」を「禄」と言い換えてある部分が大切になってきます。いわゆる「食うに困らない」という言葉は、具体的な食物をさすのではなく、衣食住と教育や生活環境全体をさしていう筈です。
この「食ってゆく=生活してゆく」その為に必要な割り当てぶん、その人なりに与えられた限りある食を「禄」と言います。
武家社会の俸給や財産を「禄高」(ろくだか)とか「○石○人扶持」と言いますね。禄高を多く与えられた人は、それだけ財産が多いというわけですが、これは別の見方では、それだけ多人数の家来を養い、それらの部下の家族に対しても責任を持つ、ということでもあります。
貰った禄高=米を全部自分で好きなだけ食べられるから財産家、お金持ちというわけではなく、それだけの禄高を管理し運用する責任も持たされているわけで、禄が多ければ能力や人格も必要なわけです。
ところが、現代は貨幣社会ですから、お米を蔵にしまっておくよりも遥かに簡単に、私産を蓄積、維持することが出来ます。そして、財産の使い方も様々です。
そして、沢山独り占めして食べちゃいけないよ、と言われた場合、「いいえ、沢山食べてません、ダイエットしています」という屁理屈も出てきそうです。
筆者に言わせれば、ダイエットとかエステとかスポーツというのは、生命を維持する為に必要なものの上に、更に上積みで消費されるエネルギーですから、沢山食べる以上の贅沢ではないか、という気がします。
古代中国ではお金持ちほど十分に食事を出来るので、太っているのをよしとされたそうですが、現代では反対になっているケースが多々あります。
どこかの先進国では、庶民の採る食事は、成長促進剤を沢山与えた動物や農作物が材料になっている為、それを常食する人間も、やたらに太っています。砂糖や脂っこいものに満足感を求めるせいでもあるでしょう。
その同じ国内でも、いわゆる知識層や管理層は、あまり太っていると自己管理が出来ていないと見なされて評価が下がるので、異様に食事の内容にこだわったりします。
もちろん、地球上の全員が、不自然な成長促進剤など使わない、天然の健康な作物を十分に食べられればいいのですが、そういう構造になってはいません。
ですので、この水野南北の本に書いてあることも、言葉をそのまま鵜呑みにせずに、時代背景や基本理念、思想まで読み取る必要があるということです。
それでは、食にこだわるのは意味がないかというと、それでもなおかつ、食は運命を左右する、という言葉は正しい、と断言しましょう。
しかし水野南北がこの本を書いた時代と比べ、読み解き方が難しくなっているのは確かです。そういう背景を忘れずに、南北翁の教えを学びたいものです。
また、この本の現代語訳は、一見分かりやすいようでいて、根本理念を自分流に曲解してしまうおそれもあるので、あまりおすすめしません。
分かりやすいということは、その時の自分の知識の範囲内で、解釈を限定してしまうことにもつながります。その為に、かえって誤解を産む場合があるということを、忘れないで下さい。
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