観相術入門:目次

国風について



今回は国風、地域色とでもいうべき問題にスポットを当てています。世の中には民族性を否定する向きもありますが、所変われば品変わる、土質や気候が違えば作物の育ち方や味も違います。
それと同じように、ある地域で育った人間にも、その地域なりの特徴や性質が備わっています。そういう様々な要素がまとまると、民族性、国の特徴とでもいうべき、一種の傾向が出てきます。

この際、民族の区切りや国境や歴史的変遷などはさしたる問題ではなく、気象条件、自然条件などから来る一種の特徴が主な要素となります。しかし、気象条件などの自然、物理的要因を余り重く取り上げますと、政治体制などの人為的要素はあまり地域色とはかかわりがないのだ、と解釈されてしまうかもしれません。
当サイトの立場では、人間をも自然の一部と捉え、人為的なことも、またその人為を産み出している人間の思想や性格なども含めて、自然条件と考えています。カッとなりやすいか辛抱強いか、規則を守るか守らないか、よく意見を言うか黙って腹に収めがちか、そういうことも含めての特色、自然条件です。
ですから、特定の政治体制なども、そういう政治体制だから地域色は無くなっている、ということではなく、そのような体制になってしまいやすい要因を、もともとその土地と土地で暮らしている人が持っているということで、政治体制まで含めての地域色という風に、包括的に捉えて下さい。
もし侵略されて、その国の本来の特徴が無くなってしまっているような場合は、侵略した側の体質を侵略された側の体質と断定してしまうのは、不都合があるかもしれません。
しかし、自分本来の特徴が無くなってしまうということは、もともと風水でいうところの太極が弱くて、本来の特徴も薄かったのだ、という考え方も出来ます。要は結果なので、あるがままに見ればよいと思います。


ここで言う大国、小国とは、たぶん日本国内でいう藩名、例えば越後国、上総国、肥後国というような感覚のほうが強いでしょう。この本が書かれた時代には、現代で言う大国=アメリカとか中国というような感覚はないと思います。
もう少し卑近に、地方の資産家的なスケールで大家、小家を思い浮かべて人の性格に結びつけると分かりやすいかもしれません。ただ一般の小作人的な身分を小家というのは少し卑近すぎて、せめて苗字を持っている家ぐらいでないと、家としての体裁を満たさないと思います。

ここで述べられているのは、資源が豊かで生活にゆとりがあると、少々のんびりしてしまって世俗の世渡りにうとくなりがちだが、生き馬の目を抜くような生活をしていると目先の機転は利いて世渡りは上手だが人物が小さくまとまりやすい、といったことでしょう。


気象や水の流れの陰と陽を説いてあります。この原則は一般の家相にも当てはまることで、北国、南国の別は玄関や長く居る場所にあてはめて考えることができます。
特に「水気の多くあるところに住む者は」という項目は、家相の中でも水場の相は身体的な健康に関わってくるという点と一致していますし、他の「気風」や行いに関しては、玄関や開口部の相が社会生活や人付き合いの面に関わってくるという点で、家相と一致しています。

水の流れはもっと基礎的な家の土台に関わる問題で、一戸建ての場合の上水道、下水道の工事の際に考えなければならない問題です。家の下を流れる水流は、後からでは変えられないので、立地条件としては間取りなどよりも重要視しなければなりませんが、これを地域に置き換えると、川の流れの方向がその一帯に住む人々に多かれ少なかれ影響を与えるということで、重要な問題です。

北国では水は多く北へ向って流れる、南国では水は多く南へ向って流れるとあり、これは実際にあれこれ調べて見なければはっきりしたことは分かりません。しかし実際にはたぶん、北国だから水が北へ向かって流れるのではなく、北側に水が落ちて溜まるから北国的な自然条件が出来、北国的な条件が強くなれば自然と水の流れも北国的に北へ向かって流れる、というサイクルが出来上がっていくのではないか、と思います。

南国も同様ですが、北国が水の陰+北の陰で同じ性質を持っているので陰々ながら素直であるのとは裏腹に、水の水性+南の火性で水火相克なので、陽気を含んでいると同時に殺伐の気があるということになるのでしょう。


この部分は、都市の歴史的経過と共に読み返してみると面白いものです。国全体に求心力という見えない力が働いているとすると、地方や離島ではどうしても、そこに定住するよりも中央に行って一旗挙げようという気持ちが強くなるのでしょう。
また盆地である京都は、比較的長い間、その習俗を保っていますが、その代わりに閉鎖的で、客人には表向き愛想が良いのに、何代か住みつかないと土地の人間とは認めてもらえないというような、頑固で排他的な部分があるようです。
一方、「難波」である大阪は、人の交わり、水の流れも多くて親しみやすく、水物である金銭の流れが多くて経済も盛んな代わりに、なかなかその変化も激しく、時には澱んだり氾濫したりもあるのは、毎日のニュースを見ていても感じることです。


言葉と心について説いてあります。言葉と心は非常に近しいもので、心が明るく浮き立っていれば大声でかん高い調子で話しますし、あまり心の中を表現したくない、隠したい、重く沈んでいるような時には、なるべく口を開けずに小声で喋ります。
方言と舌の使い方の関係は筆者もどうもよく分からないのですが、いわゆる江戸っ子のべらんめえ巻き舌は確かに舌を下げてはできないでしょう。筆者は福岡出身で、20台から関東で暮らしていますし、一時は放送や朗読などの業務にも携わっていたので、それなりに訓練したことはありますが、どうも若い頃に仕込んだ話し方の癖はなかなか直りません。
最悪なのは音声認識アプリを使う時で、聞き取りやすいようにはっきりと話そうとするほどおかしなことになってしまうようです。最近も、動画プレーヤーにトラベル英会話の翻訳機能を仕込んだガジェットが押入れから出てきたので、これ使えるのか?と試しに吹き込んでみたら、えらいことになってしまいました。
「駅はどこですか?」と吹き込んだ積りが「息はドックですか?」「部屋だって聞いていたか?」とトンでもない変換をされてしまい、呆れるやら可笑しいやらでしたが、人の話し方には、当人が思ってもいないような強い癖があるということなのでしょう。後で再度、また軽く試してみたら正常に認識したのですが、人が居たので正確に認識させようとすると、かえって癖が出てしまうようです。
これは口腔の形や歯並びによっても違うと思いますが、むしろここで注目すべきは、これらの話し方の癖に対する講評が出身地に限定されており、それ以上言及されてはいないということではないでしょうか。

どっかの大学の雄弁会出身で活躍されている著名人もあるようですが、「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉もあるように、あまりに弁舌巧みな人は、むしろ信用されないシーンも多いような気がします。
誤解されないように必要なことをきちんと伝える誠実さと能力は必要だとは思いますが、うまく喋ったり上手な作文を書くのが必ずしも良いこととばかりは言えないのは、最近の日本の政権交代劇を見ていても、認識を新たにするところです。

各企業のトップ営業マンを見ても、本当にトップクラスの大きな契約を取ってくる営業マンには、立て板に水の雄弁タイプはほとんど見かけないような気がします。筆者の知っている、世界的に屈指の成績を上げているような人物は、小さな声で相手をジッと見つめながら、やや聞き取りにくい感じでボソボソ話す人がほとんどでした。
自分から相手に向かって行き、大きな声で滔々とアッピールしたら、相手は騙されまいと警戒したり勢いに押されて引いてしまいますが、小さな声でしかも内容のしっかりしたことを、一人の相手に向かって真剣にボソボソと喋っているので、自然と相手のほうから身を寄せて耳を傾けにやってくる、そんな感じです。
もちろん、小物相手にそんなことをしていても大きな契約は取れないので、人物を見定める能力も優れているのでしょうが、ひょっとして皆さんの持っているトップセールスマンのイメージと現実は、かなり違うのではないでしょうか。政治の世界でも、話し方のうまさやカッコ良さなんて、国民は本当はそんなものを政治家に求めてはいないと思うのですが、情報社会も行き過ぎると、自分で自分の首を絞めてしまうかもしれませんね。

後半の、己の心を治める云々の記述も、心=中身と器=住む土地の関係を説いたもので、心正しければ死地も生地となり、心放逸なれば生地もまた死地となる、というところでしょうか。
お馴染みの「相は心に従って生じ、心は相に従って生ず」の言葉が思い浮かびますし、島田虎之助の「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣 又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉をも思い出されます。
環境が悪いからパッとしないというのは半分は当たっていますが、その環境とは実は自分自身の器でもあるので、まず自分自身がしっかりせよ、ということなのでしょう。


この部分は注目すべき情報です。特に地震活動が活発になっている昨今、重要なヒントを秘めているようです。
水気の少ない山は草木が茂らない、というのは分かりますが、もともと水気の少ない山が水気を含んでくるのは変事の前兆…
これは2011年の東北大震災でも多く見られた、液状化現象と関係があるのでしょうか。田舎のほうでは時々、裏山が独特の地鳴りっぽい音を発したらすぐ逃げろ、というような言い伝えがある土地が存在します。
活火山などでも、噴火の前兆として山が隆起するという現象がありますが、山の内部で隆起や地殻変動があれば、自然と聞き慣れない、山が唸るとでもいうような変わった音が発生するのでしょう。

しかし、草木が青々と茂っている山が既に勢いを失って斜陽の時であるというのは、なかなか興味深いところです。植物を多く育む山ふところはいろんな意味で奥の深いもので、生命をその内部に抱く以上は、その寿命もいつかは尽きるということを、知らなければならないのかもしれません。
形あるものはいつかは滅びますし、永遠のものは存在しないのかもしれませんが、単に国風、土地柄といっても、そこに暮らし行き交う人々の栄枯盛衰、いろんな観点から考えてみると、興味の尽きないところであります。

「2013年5月記」

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