ハリソン・フォードが好きなので、改めて映画「フランティック」を見ていた。
私はハリソン・フォードに関しては何故か、インディ・ジョーンズみたいなヒーローものよりも、取り乱したり頑固だったりひどい目に遭ったり、と矛盾だらけの役のほうが好きである。
そんな中で特に点数が高いのが、このフランティック。
Franticの意味は「半狂乱の、血迷った、死にものぐるい、気が狂ったような」という感じだそうだ。ハリソン・フォード扮する医師がパリに旅行中、いきなり妻を誘拐され、警察も当てにならず、自分で必死の追跡を開始するというストーリー。グレース・ジョーンズの歌うテーマ曲とエマニュエル・セニエの謎の美女の雰囲気ともあいまって、かなり好きな映画だ。
ネタバレになってしまうが、映画レビューを何となく見ていたら、この妻を演じたベティ・バックレイが気品のある女優なので、結局は無傷で返されるという設定が自然に見られた、というのがあった。
そう言われて見れば、何となく上品な感じの女優ではある。
映画はそれでいいかもしれないが、気品があるとか上品だとかってナンだろう?と、つい世間の基準をそのまま受け入れない私の性癖が、頭をもたげてきてしまった。
気品のある女優というと、グレース・ケリーやイングリット・バーグマンなんかがよく挙げられる。一方、有名なのに、見ていて下品に感じることが多くてしょっちゅうガッカリさせられるのは、一昔前は美形男子の代名詞のようだったアラン・ドロン。
個々の俳優の評価は各人に任せるが、私は持論として、あんまり上品な俳優やタレントは人気が出ないのではないか、と思っている。国民的な人気を誇る俳優やタレントには、「カッコいい」「可愛い」「セクシー」「きれい」はあっても、さほど気品のある人は居ないような気がするのだ。
昔は大物俳優と庶民との距離がかなり離れていたので、「高嶺の花」にそっと憧れることも多かったのだろう。しかし、だんだんテレビタレントと一般人の垣根が低くなってきてからは、隣の家の娘や息子がテレビに出てるよ、といった感じで、距離が近いのを喜ぶ傾向が強くなったように思う。
そうなると自然と、演技の質もレベルダウンしてくるのは当たり前で、朝ドラマなんかたまに見ても、素人の学芸会にしか見えなくなってしまった。
日本の映画界、演劇界が食えない世界なので、監督にしろ俳優にしろ、才能のある人材が入って来なくなったのは無理もないと思うが、いささか寂しい限りだ。
こんな風潮の中で、本当に育ちの良い子女が芸能界に入ってくるのを期待するのは少々無理な話で、上品な感じの芸能人は減る一方だろう。もっとも、お姫様と正義のフィー路だけではストーリーが成り立たないので、そこに偏屈でも味のある人物やら小ズルイ悪党やら斬られ役までがバランスよく存在する必要があるので、上品な役者が増える必要はいっこうにないのだが。
もともと芸能界というのはハングリーな世界のせいか、複雑な家庭に生まれ育ったり、コンプレックスの強い人が多い、と知り合いの出版社の社長が言っていたが、さもありなん、という感じ。
しかし、単に上品だとか下品だとか言っても、そう簡単に切り分けられるものか?
ブランドものを身にまとったエレガントな物腰の上品な山の手の子女だと思っていたら、我侭で得手勝手な、心根の卑しい人物だったという例も枚挙に暇がないし、その反対の例もよく眼にするところだ。
そもそも上品と下品の定義ってナニ?という疑問が出てきたので、これを機会に「品」を調べてみた。
広辞苑では、単純な品物の意味のほかに、こう書かれている。
「風格」と言われれば何となく分かるような気もするが、少し感覚的過ぎて物足りない。
まして「よしあしを決める」というのは、やっぱり広辞苑、最近は分かりやすくし過ぎて、カットが多すぎるような気がする。
広辞苑の旧バージョンを本棚から引っ張り出すのも面倒臭いので、次はiPhoneにダウンロードしていた大辞林を見てみる。
文例を交えてかなり詳しい説明だ。
最後に、こういう場合にはいちおう確認することにしている「大言海」を見てみる。
なるほど、「品」だけで「ミエ、タチ」まで行くか。
大昔の辞書なので、最近の辞書のように手取り足取り説明してはいないが、たった何文字かでけっこうポイントははずしていないようだ。
普通の国語辞書はここで打ち止めにして、次に仏教書を紐といてみる。たまにしか開かないが、昔、大枚をはたいて買った「織田仏教大辞典」(織田得能)の出番だ。
ついでに、(こんなところで、昔この辞典高くて買うのに決心が必要だったよなあ…なんてのが真っ先に出てくるのは下品かなあ?)という思いが脳裏をよぎる(笑)。
老眼なのでめっきり不便になってしまい、こういうアナログの極のような本を見る時は、秘密兵器のスイッチを入れざるを得ない。
うちには老眼鏡どころか、視力障害者用の本格的な拡大読書器が設置してある。細かいところまで見えすぎて、自分の手の毛穴がドアップで写ってしまい、一瞬ビックリするが、(笑)これはけっこう便利。
紆余曲折した結果、「品」とは「九品」(くほん)から出ていることを発見した。そういえば「九品仏」というのがある。
それによると、もともと「品」という言葉はサンスクリットのVarga(ヴァルゴ)の訳で、「分割」という意味だそうだ。「品がいい」などというと、感覚的な言葉だと思ってしまい、分割なんかしちゃいけないんじゃないかと何となく思っていたが、ある意味、階級制度から出た言葉なんですね。9つのカーストか…
この仏教辞書の解説によると、九品は次のように分割されるらしい。
上品 | 1、上品上生 | 2、上品中生 | 3、上品下生 |
中品 | 4、中品上生 | 5、中品中生 | 6、中品下生 |
下品 | 7、下品上生 | 8、下品中生 | 9、下品下生 |
ランク付けすると以上のようになるらしいが、肝心なのはその中身だ。
九品という言葉は、次のように使うらしい。
九品の浄土、九品の思惑、九品の潤生など。
九品の浄土というのはもともと、阿弥陀様のおわす浄土の蓮華の上に容易に生まれ変わりやすい行いを指す。うまくスムーズに生まれ変わる為に、九品の行業とか九品の思惑とか、九品の潤生などがあるので、結局は浄土に生まれ変わる為に良い行いをしなければならない。その行いの良し悪しのレベル、ということらしい。
「九品の行業」はその具体的な修行法とあるが、九品の思惑とはナンだろう?ひょっとして普段の心がけのことなのか?
九品の潤生は…よく分からないが、「潤生」で調べたら、介護施設が出てきた。命名の意味について、「真心からの介護で精神的にも肉体的にも潤し、一人ひとりが天寿を全うされるように」というようなことが書いてある。
これを応用して考えると、極楽浄土に生まれ変わって身も心も潤う、その潤いかたのランクというような意味か?
辞典には更に「九品の惑」というのがあり、「貪、瞋、慢、無明の四種の修惑を『ソ細』に就きて…」
「ソサイ」の「ソ」がたぶん文字化けすると思うのであえて書かないが、鹿を三つ重ねた文字で、「粗くて大雑把なことと、きめ細かいこと」という意味らしい。仏教書を見るようになってから、けっこう難しい漢字も覚えたが、こんなトンでもないややこしい字には初めてお目にかかった(アセ)。
文脈からするとたぶん、九品に分類する為、最初は大雑把に分け、次にそれを細かく分けると…という意味になるのではないか(←大雑把)。
「修惑」の「惑」は、現代語とは少し意味合いが異なり、「まどい」という意味で、「修行の妨げになる惑い」という意味らしい。
細かいことは抜きにして、要点はこういうことになりそうだ。
「極楽浄土に生まれ変わるには、貪欲だったり怒りっぽかったり、高慢だったり無智だったりが、最大の妨げになる。それら悪い心の少ない者が上品であり、多い者が下品である。品を細かく分類すると、九段階に分けられる」
「貪欲、怒り、高慢、無智」とは、何となく悪いことを挙げているわけではなく、仏典の中ではお馴染みだ。
普通、「貪・瞋・痴」(とんじんち)という場合が多いが、宗派により高慢の罪が入るらしい。
ここまで来ると、キリスト教の「七つの大罪」が浮かんできたので、映画「セブン」を思い出しながら検索したら、面白いことが出てきた。
普通、伝統的には七つの大罪というと「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲」になっている。
ところが、バチカンが新しい七つの大罪を発表したそうで、次のようになっているそうな。
これって…伝統的な七つの上に、更にこの大罪が加わるわけか?
リサイクルしないのは環境汚染の罪にあたるそうで、こうなると、かなりの人が大罪人のようだ。かなりじゃなくて、ほとんど全員?
いったい世界の人口の何割が天国から締め出されるのであろうか…地獄が満員になるんじゃないかと、心配になってきた。
そこでまた思い出してしまったのは、ジョン・ウォーターズ監督の映画「シリアル・ママ」。
何故かDVD未発売(2009年11月時点)のブラック・コメディだが、個人的にはかなり好きな作品。奇才というよりも映画界の悪ガキ、ジョン・ウォーターズが「大人はうるさいこと言うけど、隠れてもっとひどいことしてるじゃないかよぅ」とでも言いたげな内容で、彼の作品としてはそんなにエグくはないので、機会があったら一見されたし。ただし感覚的にはR18の積りで見たほうがいいかもしれない。
ごく単純なストーリーなのだが、キャスリーン・ターナーの怪演も見事だし、「テープ巻き戻せ!」「ゴミは分別しろ!」も風刺が効いている。
更に検索していると、伝統的な七つの大罪にしても、かなりこと細かに設定されていることが分かってきた。例えば、暴食にも次の6つが含まれるそうだ。
「早い食事」というのは、早食いなのか時間が早いのかは分からないが、どっちにしても食をむさぼることには変わりないので、早食い競争出場者、早弁のキミには、大罪人の烙印がバッチリ押されます。
南北相法なんかでも、運勢が悪い時には食に対する執着を捨てて粗食にすると開運になる、と説いていて、その効果は百発百中だったそうだが、関係があるのか?
確かに、食は人間の欲望の中で一番切実なものだし、その部分で執着の強い人は人を押しのけてしまう結果にもなりがちだろうから、いろんな罪を犯しやすいだろう、というのは分かる。しかし、改めてこう羅列されると、恐ろしくなってくる。
筆者はこの中では、アルコール限定で「多すぎる食事」と、「激しすぎる(熱すぎる?)食事」を犯しがちだなあ。アツアツの食事が大好きだし、辛いものが好きだし。
これでいくと、食いしんぼは間違いなく下品な人として、地獄行きになりそうだ。
キリスト教は別にして、筆者は個人的には、極端に食事の質にこだわる人には、あまり好感を持てない。というのは経緯があり、さる団体で、そこに出入りしていた著名人のお偉い先生が、こういうことをのたまった。
「人間は感覚を磨かなければ向上できない。感覚を磨くには、日常口にする『食』の質を上げるのが一番である。」
確かにお説ごもっともなので、その団体の長がその説に追随し、その結果、その団体はえらく食の質にうるさい団体になり、構成員も口が肥えてしまった。
ビールはエビスビールオンリー。ほんとにエビスビールが最高か?は知らないが、値段が高いのは事実。その費用は、いったい誰が負担するのか?
感覚を磨くったって、最高に旨いものを食べさせる店でたらふく美食を堪能した後、その先生が、せめて自分のぶんだけでもお勘定を負担するならば、この人の言うことを信じるのもいいだろう。人格の問題だと思うかもしれないが、けっこう、こういう著名人って意外と多いのではないだろうか。
人に食事の勘定を負担させるのは、結局は「欲張り」なので、食にうるさいこととつながりがあっても、不思議ではないんじゃなかろうか?
たまには食いしんぼ万歳になるのもいいが、こういう美食家にはなりたくない。感覚を磨く食というのは、食の原点に返るならばいいと思う。なるべく余計な化学調味料を使わないとか、インスタント食品ばかりでなく、原材料をきちんと自分で料理するとか。
私の言うこと、どっかおかしいかしらん???
話が脱線したが、食のことをこんなに事細かに規定するのが、果たして有効なのだろうか?結局は「むさぼりはよくない」のほうが分かりやすいと思うのだが、細かく説明してもらわないと気づかない、という人がいるのも事実なので、難しいところ。
仏教にもいろいろ種類があるので、「殺生してはいけない」というのを厳密に守って、蚊一匹殺してはいけないとか、虎に自分の身を食事として投げ与えるとか、極端な話もある。これは小乗仏教(現在は原始仏教と言う)で、もともと「人間を殺してはいけない」という規則がまだ存在しなかった時代に説かれたものだ。規律を細かくするのは、時代を逆行することにもなりかねないのではないだろうか。
色欲の罪なんかも、仏教では「色欲じたいは罪ではなく自然の欲望である。それに執着する囚われた心がいけないのである」と、かなりユルイ扱いなので、仏教徒でよかったと思ってしまう。
食に限らず、キリスト教ではこの方面はかなり厳しいみたいで、流派によってはオーラルセックスは罪になるとかいろいろ怖そうで、恐れおののいてしまいそうだ(笑)。
キリスト教はさておき、上品、下品が、氏や育ちや高級感や表面の丁寧さ優雅さではなく、行いとか心根に由来することが分かってきたので、もう少し内容を詰めてみた。
仏典の通りではなく、内容を噛み砕いて分かりやすく整理してみる。
上品
1、上品上生:至誠心、深心、発願心があり、慈心をもって殺生を行わず戒律行を守る者。大乗経典を読誦する者。
2、上品中生:大乗経典を読誦せずとも、よくその意味を理解し、心に恐れや疑いがなく平常心を保ち、因果律を信じて大乗を誹謗しない者。
3、上品下生:因果律を信じ大乗を誹謗せず、ただただ悟りの道を求める者。
中品
4、中品上生:五戒、八戒など諸々の戒律を守り、悪業を行わない者。
5、中品中生:1日1夜だけでも五戒・八戒を守り、また年少者の戒律を備え、常に礼儀正しい者。
6、中品下生:父母に孝行し養い、世間に対して仁と義を守り、慈みの心を実行する者。
下品
7、下品上生:大乗経典を誹謗せずとも、多くの悪事を行って恥じいることのない者。
8、下品中生:五戒・八戒・具足戒を犯し、寺社、僧侶のものを盗み、間違った説法をして恥じ入ることのない者。
9、下品下生:五逆罪・十悪を行い、不善を行って地獄に堕ちる者。
こう見てくると、一般世間の決まりを守ったり善行を施すよりも、仏教の悟りを求めたり読経したりするほうがランクが高いように見える。
大乗仏教理論なので当たり前といえば当たり前だが、そもそも大乗の仏道に入るには「殺してはいけない、盗んではいけない」などの一般世間の決まりは当然クリアしていてのことである。
このような記事を書くと、必ずと言っていいほど「仏典を読誦しながら悪事を働いた場合はどうなるのですか」という、ツッコミの積りの質問が来がちだが、つまらないので受け付けない。
現実にはたまにそういうことがあったとしても、犯罪人にも仏種が宿っているので、悪いことをした場合は、その罪滅ぼし、挽回の為に仏種は芽を出すものだし、それを大切にしてゆけばよい、ということでファイナルアンサー。
「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と、親鸞聖人も言ってるでないかい。
なお、五戒、八戒、因果律その他の仏教用語は、解説するとなれば幾らでも出来るが、今回はあまり立ち入らないことにする。
九品の分類から読み取れるように、悪いことをしない→世間一般の良識を守る→良いことをしている人を貶めない→自分で良いことをする、という風にランクが高くなっていっていることを確認できれば、十分だろう。
とりあえず今回は、上品で優雅な山の手やナントカヒルズの住人だと思って信用したら騙されました、裏切られました、失礼な振る舞いをされました、ということがあれば、そういう相手は実は下品な人達なのだと、はっきりした基準が分かったので安心して結構でしょう。
もともと、優雅さや自然と醸し出される気品(一般的な意味での)というものは、しっかりした教養や他人を思いやる心のゆとりから自然と生まれるものだということを、私達は何となく感じ取っている。
教養や思いやりのある人は当然、悪いことはしないだろう。だから皆、優雅で気品のある人には敬意を払うものだが、人間、普段から修行していないと、生活している間に自然と垢がついてしまって、どんどん低いほうに流れてしまうので油断はできない。
また、自分に自信がないので、やたらにブランドの力を借りて表面を飾りたがる人が存在するのも事実だ。表面的に資産が出来ても内容が伴わないを「成金」「成り上がり」と言うが、自我とプライドだけが肥満したまま残り、すでに中身が伴っていない例も決して少なくはないと思う。そんなのを尊敬する必要も羨ましがる必要も、一向にないと思う。
言い換えれば、下町の住人でも、心がけと行い次第では、うんと上品な人種になることが出来る。
上品と下品の考察でした。
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