最近、手元のタブレットで映画やTVドラマを見るのに凝っていて、寝る時につい見てしまう。眠る前には、紙の本を読んだほうが熟睡できるのはよく分かっているのだが、もともと映画やドラマが好きなせいもあり、タブレットの便利さに、ついついはまってしまうことが多い。
そんなわけで、何かめぼしいコンテンツはないかとネットをさまよっていたら、タイタニックが配信されていたので、何となく再生していた。
筆者も既に何度も見た映画だし、タイタニックなんてベタな映画が、何で今さら話題に出るの?と思うかもしれないが、やはりそこは人それぞれ、自分の中に何かが妙にひっかかる時があるものだ。
これはもしかしたら、最近の世界情勢と関連する部分があるせいかもしれない。
何がひっかかったのかというと、タイタニックが沈没する時に、乗客が救命ボートに乗り込むシーンだ。皆さんご存知だと思うが、タイタニックには乗客の人数分の救命ボートは設置されていなかった。しかしそのことが問題なのではなく、あった救命ボートに、定員いっぱいに人を乗せなかったということだ。
これは規定が当時きっちり決まっていなかったとか、避難訓練がしっかり行われていなかったとか、原因はいろいろあるだろう。しかし正確な事実関係はともかくとして、映画の中で印象に残ったのは、1等2等の船客と、3等船客では生き残れそうな率がずいぶん違うなーということだ。
キャシー・ベイツやローズの母親役の女優がこのシーンでとてもいい味を出していたので、なおさら印象に残ったのかもしれないが、簡単に言えば身分階級によって、命の重さに違いがあるという現実が描かれていたからだ。
私たちは…いや私自身はずっと信じていた。人ひとりの命の価値に違いはないと。しかし現実はどうもそうではない場合が多い。もしかしたら、かつての首相が言った「人の命は地球より重い」という言葉を、無条件に信じていただけなのかもしれない。なぜその言葉を信じたのか?それはそのほうが、自分にとって都合がよかったせいかもしれない。
このところ、世界はテロや難民問題の為に、第二次大戦後、もっとも不安定になっているのは衆目の一致するところだろう。もしかしたら第三次大戦も近いのかもしれない。
戦争なんて嫌だ!とんでもない!今の平和な生活を脅かさないで欲しい、と多くの人が願うだろう。戦争したい人なんて、そんな人がいる筈がない、と思うかもしれない。しかしそれは余りにも甘ちゃんだ。世の中には戦争を起こしたい層も確実にいる。戦争はある層にとっては金になるのだ。
永世中立国であるスイスが実は軍事大国で、中立は軍事力によって支えられている現実を見ない人も多い。私の高校時代の社会科の教師は、俺はもし戦争になったら金をスイスの銀行に入れてスイスに逃げる、と言っていたが、そんなに都合よくいくのだろうか?職員室は赤旗新聞だらけだったし、その教師はその後、日教組に移ったという話を聞いたが、そんな教師から社会科や歴史を教わった世代が親になっているのだ。
そもそも、スイスの銀行って、そんなに信用できるのか?ホロコーストの時にスイスの銀行に資産を逃がしていたユダヤ人からは、だいぶ違う評価が聞こえてきてもいるようだが、真実は私には分からない。いずれにしても、生命や財産に関わることで、人間の倫理観や良心が、どこまで信用できるものだろうか?
仏教経典にはこう書かれている。人間の基本的な欲求=五欲というものそれじたいは当たり前で、善でも悪でもなく清浄なものだが、その欲望の為に他人を傷つけるのは罪である。罪を犯すと因果応報で自分に返ってくると。だから宗教上の規律、戒律や国家の法律というものが定められている。
しかし、世の中が怪しくなってくると、この戒律や法律がきっちり守られなくなってくる。腕力、力比べの世界になってくる。肉体の腕力を振るうと逮捕されてしまうので、他国の政治の世界を侵略して、内部から腕力で潰そうとする者まで現れる。日本の国会にも、そんな動きがちらほら見受けられるではないか。
そんな不確実な世の中で、私たちは精一杯、自分自身や家族友人の生命財産を守りながら生きていかなければならないが、命が平等でないという現実はひしひしと身辺に感じる。
世の中にはさまざまな形の戦争があるが、価値を認められない命から先に処分される。アフリカの貧国の飢えさらばえた赤ん坊の命と、権力者の代表のようなアメリカ大統領の命が同等だろうか?世の中不公平なようだが、ある意味では公平でもあるのだ。実はこれが、本章のテーマである。
政治談議を長々と並べても分不相応なので、タイトルの「命の重さは平等か?」という点に絞って、東洋運命学の立場で作者なりに一つの指針を探してみたい。
四柱推命の用語だが、運勢…主に先天運を見るのに、「貴命」「賤命」という評価基準がある。幸運、不運と言ってしまっても間違いではないが、それだと何が幸福か不幸か、となるし、強弱とはどう違うのか、ということにもなる。
こういう時はネット辞書では心もとないので、念の為に大言海でも確認したが、貴賤というのは基本的には身分や序列のことである。そこから転じて、序列の高いもの=値段が高いという意味も出てくる。
つまり、総合的に見て価値の高い順に貴→賤ということらしいが、果たして東洋運命学上の貴とは、何をもって決めるのだろうか。
これはたぶん、皆さんには意外な答えかもしれないが、はっきりしたセオリーがある。東洋運命学では、循環量の多いものを貴命とするのである。
循環量というのは、その人の命式に強い力があり、それがスムーズに発揮されて社会に向かって発現して有意の結果を産み出し、発揮されたエネルギーはまた速やかに補充されて更に大きく発現され、また大きな結果を産み出す、ということである。
つまり、財産を持っていたり、力があるだけでは貴命ではなく、それが発現されて次々と結果を産み出さなければ貴命ではないのだ。発展する人、実力者は必ずこういうサイクルを持っている。
最初に持っている有形無形の資産が小さくても、それをうまく回していくことができるのが貴命であって、いくら多くの財産があっても、それを死蔵しているだけでは、貴命ではなく価値もないということなのだ。
運命学ではこの、蓄積→発揮→結果→蓄積→発揮のサイクルを見るのが最も重要なことなので、資産があるかないかは問題にならないのである。
そうなってくると、財産があって楽に暮らせても、社会に出ていない、何もしていない人は価値がないのかというと、確かにそういうことになる。
もちろんここで、社会に出るとか何か仕事をするというのは、必ずしも会社勤めや事業をしているということではなく、主婦としての役割もあるだろうし、広い意味では消費行動も社会活動の一環になるだろう。
大きな屋敷の住人で、一見何もせずに暮らしているように見えても、屋敷を管理して従業員を使う、という立派な仕事がある。メイドや運転手を使うというのは、自分では何もせずに人にしてもらうことではなく、使用人を管理して使う、という、案外に能力の必要な仕事だ。
それでは、最低限の生活でいいので、親のすねをかじれるうちはギリギリの金銭で食いつないでニートしてればいいや、というのは価値がないのかというと、確かに価値がない、賤命である。
何か病気がちであるとか事故にあったとかいう人よりも、循環が少ないという意味では、ニートは最も賤命ということになる。
余りにはっきり言われて気分を害する人がいるかもしれないが、生産活動も消費活動も何もしていない人は、そこでムカついても何の影響も及ぼさない。それが嫌だったら、何か活動をすればいいので、活動して社会に参加しない限りは、最も軽い命である。
昔、仏教書のテープ起こしをしていた時に、原稿を編集者に渡したら、こういう電話が入った。
「仏教の戒律のところに『劫盗人物戒』というのがあり、『他人の物を盗むこと』とあります。盗みの罪ということなので『劫盗』ではなく『強盗』の間違いではないのですか?」
これは間違いではなく、まさしく「劫盗」なのである。「劫」とは時間の単位で、「未来永劫」というように、長い時間をさす。
物を盗むというのは、時間をかけて働いて手に入れた物を盗むので、つまりは時間を盗むのと同じことである。時間というのはすなわち生命であるので、泥棒→劫盗→殺人と真っすぐにつながっているのだ。人に余分な手間をかけさせるとか小さな物を盗む、とかいうことも、あまり軽く考えないほうがいい。何もせずにただ生きているというのも、他人の邪魔にはならないかもしれないが、運命学的には軽い存在である。
自分自身の生命や時間も、軽いものにしたくなければ、単に何もせずに生きていければいいや、というのではなく、価値のある時間にしたほうがいいのではないだろうか。
筆者は生き甲斐とか感動とかいう言葉があまり好きではないが、東日本大震災の後に、一時的ではあるが結婚する人が増えた、というのは、とても嬉しいことだと思う。人は生命の危機に晒された時に、より生き生きとした生命力が発現される。不安定な世の中も困るが、人間は安定して食うに困らないとまた別の問題を作り出すという、まことに困った生き物だ。
やる気を出せば、賤命から貴命に変わるかもしれないし、活動のサイクルが過ぎた人、まだこれから来る人、いろいろだ。いずれにしても、手をこまねいているよりも、外に出たほうが動きが出るのは確かだろう。
2016年10月記述
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