筆者と仏教とのご縁は、「仏教を学ぶ」の章にも少し書いてありますが、ある時期から、自分は一般社会で普通の立場には居られないのだな、と思うようになりました。
最近、youtubeを見ていたら、禅宗系のお坊さんが、リスナーの悩みに一問一答する動画に出会い、少しだけ見ました。話が長いので、ちゃんと見たのは、せいぜい2~3本ですけれど。
この動画を見ていて思ったのは、仏教に縁があると言っても、私なんかとは随分、違うものだなあ、ということです。
このお坊さんは、既成流派から独立して単一流派を立ち上げておられます。顔がよくて話が上手いので、youtuberとしても一流で、ビジネスとして見ても成功者です。禅宗の僧らしく相当な能弁で、これに関しては好き好きだと思いますが、筆者なんかはこんなに何をやっても達者で手八丁口八丁だと、ちょっとけむたく感じてしまいます。
こういう順風満帆の成功者に、社会の落ちこぼれが救いを求める気になるのかなあ?と感じるのは、筆者がひねくれているのでしょうか。
まあそうなんでしょうね。人間って成功者に群がる習性がありますし、この方の言っていることは、仏教の教えの基本どおりなので、教科書どおりに答えれば、まず外す事は無いでしょう。
筆者なんかは、出だしからしてこういう方とはだいぶ違う、ディープな世界に居る…というか、自分で望んだわけでも無いのに投げ込まれているので、馴染むのにしばらくかかりました。
何故こんな話をするかというと、最近は考えがあって、熱心に易を立てるようになった、という理由があります。
易を立てるということは、それじたいに、いわゆる「不思議な事」とか「超能力」に対して信念が無いと、ほぼ無意味になってしまう面が強いからです。
またこの問題は、筆者自身、護符とか御守を扱いますので、これがどのぐらいの力と意味を持っているのか、という問題にも繋がります。
こういうことを考えていると、子供の頃から連綿と続いている、自分と信仰筋の縁などと言うものにも、思いを馳せざるを得ないのです。
今回、この原稿を書いていて思い出したものがあるので、久しぶりに、再度、アップします。
講座生とのチャットでの長話ですが、この中に、筆者とタロットとの出会い…否、出会いの謎が出てきます。
相手の女性はまだ院生の時代から当サイトに来られており、今ではけっこうな公的身分になっておられるので、あまり長く掲載し続けるのも何だと思い、しばらく外していました。今回、こういう題材を書くに当たって、思い出したので、このコーナーに再掲載します。
この「易とタロット」を読むと、ああいうグッズと言うものの役割、それが時には、単なる占いの遊びグッズでは済まされない、特別な役割を持ったものであることが、何となく想像がつくのではないでしょうか。
もう一つ、筆者には、忘れようにも忘れられない体験があります。
何か見えたとか当てた、という話では無いのですが、こんな体験をしたら人は変わるだろう、と思った経験です。
こういう事は、言葉で書いてしまうと、ほんとに浅くて上っ滑りになってしまい、自分でも嫌なのですが、ずーっと心の底に留まっているので、稀有な体験として、書いておきます。
それはたぶん、90年代半ばのことだったと思いますが、ある日、私は使いに出されました。
初午祭のご祈祷を頼んでいるので、お札を受け取りに行って欲しい、ということでした。
今となってはどこのお寺だったのかはっきりしませんが、思い出した材料の範囲では、威光稲荷だった線が強いです。
駅を降りると、雑司ヶ谷鬼子母神に行く通りに出たこと、雑司ヶ谷鬼子母神そのものでは無かったこと、法華経の読経を聞き慣れた調子でしていたので日蓮宗であること、初午祭だったので稲荷堂があること、などを考えると、たぶんそうでしょう。
駅からは少し離れていたのですが、教わった道順の通りに行くと、すぐに分かりました。行く道の途中、黒板塀がしばらく続いていたのが、印象的でした。
山門をくぐると、読経の声が耳に入ってきて、それは唐突に起こりました。
体中が、えも言われぬ暖かさと感動で満たされたのです。この世のものとも思えぬ恍惚感というか、体が貫かれるような感動に捉えられて、体が震えました。
私は、どうしていいか分からなくなり、立ちすくみましたが、そのまま素知らぬ顔で初午祭の末席に座り、法要が終わるまで待っていました。
後はお札を受け取って帰るだけです。寺務所の僧侶から顔をじっと見られましたが、代理だったからでしょうか。
何だか、言葉で説明すると、安っぽくて恥ずかしいのですが、限られた語彙の範囲内でも、いちおう書き残しておくほうがいいかな、という程度の記述です。
同じ法華経の読経は、いろんな場所で聞いているので、決まったやり方ですし、自分でも読経をしますし、導師も勤めます。
なので、何故そこで、そういう現象が唐突に起こったのか、サッパリ分かりません。「法悦」なんて言葉がありますけど、そんな言葉は、こそばゆくて、とても使えません。
そのまま帰って、普通に初午のお札を渡し、それだけのことでしたが、何故そんな使いを頼まれたのか、普段はそんな事を頼む人ではなかったので、今でも不思議です。
渡す時に、ジッと顔を見られて、私は何も言いませんでしたが、この日は二度もジッと見られました。
こんな事って、あるんですね。金縛りに遭った、というのはよく聞きますけど、私のは全く違う体験でした。
改めて、文章力の無さが恥ずかしくて、お粗末様でしたが、こんな目に遭えて光栄至極でした。
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