高島易断という占い師集団が、世間に闊歩している。その裏事情は「占い業界の昨日・今日・明日」(風水学講座)で少し述べた通りだが、高島易断のこき下ろしばかりで肝心の高島嘉右衛門のことについてあまり触れなかったので、資料を元に、及ばずながら少し書いてみたい。
その前に、復習&確認しておきたいのだが、現在、高島嘉右衛門直流の易者は存在しないそうだ。これは嘉右衛門氏のご家族が易の研究誌ではっきりと明言されているそうだが、自分の目でその雑誌を確かめる機会を得ていないので、「そうだ」ということにしておく。
現高島易断(占い師団体のほう)は、占術という、本来は聖職であるべき仕事にかかわりながら、高島易断という利権の商標を巡って争いを起こしている。しかしここはまず、下世話な占い師集団のこき下ろしはさておいて、本来、高島嘉右衛門という人がどのような人物であり、またどの様な過程を経て後世の占術バイブルともなった名著「高島易断」を著したのか、その一生をひとつ、資料を元に辿ってみようではないか。
資料を紐解くと言っても、百科事典や占い師年表ではつまらないので、ここは作家・高木彬光著「大預言者の秘密」(副題=易聖・高島嘉右衛門の生涯)(光文社刊)をネタ本にさせていただくことにする。
この本も絶版になり、古本も品薄で、先日やっと入手したものだが、運良くとても美しい本で、しかも初版第一冊だった。初版だからといって別に大した意味はないのだが、本というものも縁なので、先日、くだんの「増補・高島易断」(合本・全四冊)を入手したことに続き、けっこう嬉しかった。
本家本元の「増補・高島易断」は、この内容を後世に残して広く後進のお役に立てるよう、私のサイトで責任持って使用させていただく。入手した際の日誌に書いたように、ちょうど出版百年を経て私の手元に届いた本だが、現在でも価格さえ厭わなければ幾らか入手のチャンスはあるようだ。しかし、現代文ではあっても明治時代の出版だから、若い人にはなかなか読むのも苦痛と思う。著作権も切れているのを幸い、どう料理しようかと楽しみにしている。
ちょこちょこと現代文に書き直す作業にかかってはいるが、あまり自分の解釈を入れずに、原文に近いままで、漢字カナ遣いを読み易くする程度が良いだろうと思う。復刻版もあるようだが、やはり同じ金額を払うならば、原本のほうが気持ちが良い。
今回使用する高木彬光の本は、もちろん著作権は作者にあるので、ここは私のダイジェスト版でお茶を濁していただくことにしよう。
それでは、実録高島嘉右衛門伝、はじまりはじまりぃ~。ネットで紹介するには長すぎるので、全八回の連載になってしまいました。
あまり上手くないこのタイトルは「積善の家に余慶あり」のもじりで、高木彬光の本の章題「父の余慶、子に及ぶ」と張り合った(?)ものだが、嘉右衛門を語るにあたって、その父の存在は欠かせない。
高島嘉右衛門の父は、薬師寺嘉兵衛といい、茨城県新治郡牛渡村の庄屋の家に生まれた。
ご承知と思うが、昔の次男、三男は肩身の狭いもので、家督相続の権利からは外され、冷や飯喰らいの身分。どっかの養子に行くのがセキの山というミジメな立場だが、この嘉兵衛どのは違った。
21歳の時に江戸に飛び出し、材木商の手代奉公を始め、甲斐あってノレン分けをしてもらい、遠州屋という材木店を出した。そして48歳の時に嘉右衛門が生まれるのである。
嘉兵衛の材木商としての活躍には、数々の際立ったエピソードが伝えられている。
材木商というと、帳面の上でソロバンをはじいて金勘定をしているイメージだが、当時の商人というのは士農工商の序列とは別に、それなりの実力とオトコ気を持っていなければ大きな取引はなり立たなかった。何と言っても古き良き日本のヤマトオノコである。
嘉兵衛は窮屈な幕府の規則を度胸とハッタリで潜り抜けたり、ある藩の飢饉をとんでもない大芝居を打って救ったりと、幕末範史に例を見ない美談の主となり、「南部範史」「鍋島藩史」などの公的記録にまで名を残す活躍をした。
その結果、八十石の家禄と永代士分という、農家の三男という居候的身分からは、想像もつかないほどの待遇を受けている。いや、成功したから美談になっただけで、一つ間違えば獄門打ち首の危ない橋を渡りながらも、そこは人物。封建時代でも、無一文からでも、やる人はやるものである。
この嘉兵衛の元に生まれた、幼名清三郎、これが後の高島嘉右衛門である。この子供が後々まで名を残す稀代の易聖になろうとは、生まれた家柄血統からしても、もちろん誰にも予測はつかない。
この清三郎が占術の世界に縁を持ったのは、皮肉ともいえるきっかけだった。そもそも清三郎は非常な虚弱体質で、四歳の頃まで一人で歩くこともできないほどひ弱な子供であった。
しかしそこが面白いところ。何の心配もなくスクスクと健康に育つ子は、親も楽な代わりに特別な配慮もする必要がない。清三郎を心配した嘉兵衛夫婦は、普通ではなかなかしないことをした。
清三郎の生後一年半に当たる天保五年五月、かの稀有の観相家・水野南北を招いて清三郎の将来を占って貰ったのである。
人間というものは面白いもので、不足もよくないが、あまり満ち足りているのも良くない。この高島嘉兵衛のように、自分の天性の能力をメ一杯に開花させて、何事も自力で道を切り開くタイプの人というのは、どっちかというと占いなどには無縁の存在である。神仏は敬うが、占いで道を尋ねる人は比較的少なく、自力本願なせばなる!タイプが多い。これを、占いなどという対極にある世界へと導くものは何か?
お決まりの道順の第一は、愛情問題である。貧は自分で働けばどうにかなるが、愛情問題は自分ではどうにもならない。何も男女の愛情だけが愛情ではなくて、親子の情も男女問題から派生した愛情問題である。特に、子供の病気、健康問題だけは、いくら立派な親でもどうにもならない。買える命ならば全財産投げ出しても買う!と幾らきばっても、連れて行かれる時は連れて行かれる。
ここで初めて自力本願が崩れ、東に病気治しの神がおわすと聞けばお百度を踏み、西に当たる占い師がいると聞けばコウベを低くして観て貰う。いくら偉人達人でも、子供に関してはタダの親馬鹿である。
いやしかし…この場合は東奔西走ではなくて、南北に観て貰ったというところが、やはり凡人とは違う!
ここで少し、水野南北を紹介したいところだが、当サイトに別コーナーが出来ているので割愛。
観相を依頼された南北翁、観てくれったって…メンドクサイなあ……オレももうトシだし、そんな小さな赤ん坊観たって、まだ相が完成してないから分かんねえよ。行きたくねえなあ。。。と、言ったか言わずか、水野南北は最初はなかなか首を縦に振らなかったそうだ。
しかし何しろ依頼主は音に聞こえた遠州屋嘉兵衛さんで、是非にもとの丁重なお迎えである。かの立志伝中の人物の相を見たくなったかどうかは知らないが、とにもかくにも重い腰を上げることになった。
そして遠州屋を尋ねたところで、古今東西通じての観相学の達人と言われる水野南北の、かの有名な台詞が出るのである。
いや話にきくと…ただ口に出したのではないそうである。あまりにびっくりして恐れ入ってしまったものか……どっちにしても筆者は現場を見た訳ではないのだが…
まだ赤子だった高島嘉右衛門の手相、人相を調べた水野南北老師……何かひとことうめいた後、じりじりと後ずさりして低く頭を垂れたのである。畏れ多うござりまする……というわけである。
「九天九地の相じゃ…」(アブラ汗)←ト書きです。
ここで筆者は何となくこっぱずかしくなって来る。何しろ普段のハンドルネームは九天玄女娘々(きゅうてんげんにょにゃんにゃん・略して玄にゃん)などというおおそれたハンドルを時折使う。しかし、本物の九天九地の相という、百万人に一人と言われる稀有の相の持ち主には遠く及ばない凡人である。
隣のアナタに「ワタシ、アナタに似てるわね」と言われると何となくムカッ腹が立つが、ここまで差があると「足元にも及びません」、と素直になりやすいので、因果な性分も頭を引っ込めるのである。
無駄口はさておき、玄とか九という字は東洋学関係では比較的よく使われる。「九」と言う字は数の最上位であることから、非常に多い数、無限の意に持ちいられる。「玄」のほうは幽玄微妙というぐらいで、なかなか含蓄のある言葉である。
この九という字に天がつけば、無限に高い天上界の位を意味し、地がつけば、反対に無間地獄界を指す。一人の人間に九天九地の相があるということは、果てしのない高位に上るかと思えば、反対に極悪人でもめったに拝めない程のどん底まで落ちてしまうという、まあ、人生~いろ~いろ~♪、オトコも~いろ~い~ろ~♪という、とんでもない浮き沈みの多い人生を暗示しているのである。
いや、浮き沈みなんてあまっちょろい言葉では言い尽くせない、とにかく凡人には想像もつかない、絶頂とどん底の両極端を暗示しているのである。
「この子は、上っては天界の神となり、一つあやまてば地獄の鬼ともなる。そんな激しい人生を歩かれることもありましょう。しかし心配いりません。おそらく一生のうちに何度も、もう命もこれまでか、と思うような災難を体験されるでしょうが、不思議な神仏の加護により、みんごと窮地を切り抜けられましょう。その経験は無駄にはなりません。幸福な経験も辛い経験も、みな将来は福と変えられ、天寿をまっとうされるでありましょう」
「天寿とは?この子は成人するまで無事生きられましょうか?」
「もちろんです。人並み優れた長命の相。八十歳まではこの南北が太鼓判を押しまする」
「それを伺って、やっと胸を撫で下ろしました。親馬鹿とお笑い下さい。序でに伺いますが、私の後を継いで、商人の道を歩かせても差し支えありますまいか?」
うー~ん……と少し考え込んだ水野南北、何しろお世辞らしいものは口が裂けても死ぬまで言わなかったと、自他共に認める辛口の観相家である。返事が気になるではないか。
「確かに商人になられても、大変な分限者になられることは間違いありません。しかし…このお子はそれを望まれますまい」
気になる気になる嘉兵衛夫婦の顔が、目に見えるような気がしますね…。
「それ以上のことは今の私には申し上げようがありませぬ。しかし私が確実に保証できることは、このお子は、おのれの富の為に働くことよりも、百千万の多くの人々に幸福を招来する、天下に稀なる貴相であるということ」
この時、南北七十八歳。この高島清三郎の観相が5月のことで、同年11月にこの世を去った水野南北、この子の行く先の活躍を自分の目で見届けることができずに、さぞ残念だったことだろう。幼少の高島嘉右衛門の相を観るのが晩年を飾る大仕事だったとは、さすが一流どうし、赤子と老人であっても不思議な縁によってつながるものである。
南北はその後、返礼として「南北相法」「相法修身録」「相法秘伝」などの自著を、清三郎の成長の暁の為にと届けさせたそうである。
現在でも「南北相法」は簡単に手に入るので、人相、手相に関心のある方は、その辺の適当な入門書ではなく、ぜひこの本をお勧めする。
さて、当代随一の観相家、水野南北老師から「九天九地の相」などという、トンでも太鼓判を押されてしまった清三郎、寺子屋に通いながら当時の教育のスタンダードだった四書五経に通暁してゆく。
ここで鋭い方は、なるほど、四書五経のうちに易経も入っているのだから、高島嘉右衛門は子供の頃から易経の勉強をしていたのだなーと思われるだろうが、当たらずといえども遠からず。
四書五経は当時のインテリ層は当然学んでいた、というよりも、それしかなかったに等しいので、浮世絵や枕草紙にばかりうつつを抜かさない限りは、みんな勉強している。しかし漢文の四書五経はあまりに難解で、とうてい一般人やその辺の占い師が実用占いに持ってゆくまでの力はない。
現代文の分かりやすい易経がゴロゴロしている現代でさえ、読み解くのは大変なのに、明治以前は易経を読みこなして占断に利用できるのは、ほんの一握りのインテリ層でしかなかった。嘉右衛門は抜群の理解力と暗記力で易経を読み込んでゆくが、まだその宝は嘉右衛門の中で眠ったままだった。
九天九地の相を持つ清三郎は、ごく若いうちから高島嘉兵衛の片腕となって、大工事を手がけたり、盛岡の境沢鉱山開発やさまざまの難事業を手がけ、父親譲りの気迫と度胸でもって、遠州屋の身代を築いてゆくのである。
採算に合わない難事業のせいで一時は破産しかけた遠州屋だった。しかし、嘉右衛門の捨て身の努力でなんとか持ち直して借金も返し終わった矢先の、嘉永六年のことである。
この時、二代目遠州屋嘉兵衛となった清三郎こと後の高島嘉右衛門は、用談で市谷の松平佐渡守の屋敷を訪ねたのち、半蔵門から桜田門の方へ歩いていた。
当時この堀端にはおでん、うどん、蕎麦などの屋台が出ていたが、夜ではあっても6月初夏のこととて、嘉兵衛は乾いた喉を屋台の麦湯で潤していた。その時、嘉兵衛に、提灯持ちの手代、長吉が「旦那、旦那!」とただならぬ様子で叫んだ。
はっと振り返ると、中空を大きな火の玉が飛んでいる。半蔵門から桜田門一帯の空は灼熱の炎のように燃え上がり、次の瞬間、千代田城内にパッと白い閃光が上がった。
同時に大地も大きく揺らめいたというから、現代で考えれば、隕石でも落下したのであろう。しかし、当時の彼らにはそんな知識はない。その変事は嘉右衛門の脳裏に、鋭い直観力を呼び覚ました。
(今に天下国家に一大事が起きる。今の火の玉はその大事件の前兆だ)
差し当たっては嘉右衛門の出る幕はない。しかし、火の玉を見た時期から、相次いで世情が騒がしくなってくる。十一代将軍家慶の急逝、黒船来航、吉田松蔭投獄など、日本の鎖国体制が崩れだし、徳川幕府時代はだんだんと幕末の動乱期へと、雪崩を打って動き出すのである。
舞台変わって…嘉兵衛の自宅
「このごろ、ずいぶんとなまずが食卓に上るなぁ…」
嘉兵衛(嘉右衛門)は夕食の膳に向かって首を傾げた。
「なまずが沢山採れて安いのです。とにかく魚屋さんの話では、このごろ江戸付近では、なまずが手づかみにできるほど採れるそうです。」
「奇妙な話だな。亡くなった父の話では、霞ヶ浦にはなまずの化け物が棲んでいて、そいつが暴れると大地震が起こる。だから香取神社の神様が要石で抑えているという話だったが…」
嘉右衛門はふと箸を持つ手を止めて考え込んだ。
(なまずが地震を起こすなんてそんな馬鹿な話はないだろうが、動物と言うのは異変に敏感なものだ。不思議な予知能力を持っているとも言われている。なまずの大量発生は何かの予兆かもしれない…)
「なまずのほかにも少し妙なことがあったのです。今日のお昼ごろですが、お台所のお釜が自然に鳴り出しました。火の気もありませんのに。不思議な音を出しながら半時ばかりも鳴り続けたあと、自然に止みました」
嘉兵衛は小首を傾げながら、食卓を後にして仏間へ入って行った。何か気持ちが定まらない時は、ここで心身統一をするのが習慣なのだ。観音経を誦して心を澄ませた後、筮竹を取り上げてみた。筮竹を切る方法ぐらいは心得ている。たまにこうして自分で占ってみることもある。
出た卦は『離為火』上九、玉用いて征し、首を挫くを嘉する有り。獲ること其の醜に匪ず。咎なし。
=火+火の卦である。それに加えて、進んで功績を立て、その手柄を君に認められるという卦である。
嘉兵衛は考え込んだ。そしてある結論に達すると……
この一占に命を賭ける覚悟を決めたのである。腹を決めたら行動は早い。彼は馬を飛ばして付き合いの深い藩の江戸屋敷へと駆けつけた。金策である。
出てきた留守居役は嘉兵衛の頼みに目を丸くした。それも無理はない。
嘉兵衛は何と、千両の大金の無担保貸しを頼み込んだのである。理由は聞くまい。嘉兵衛は真っ赤な嘘をついて武家から大金を借りたのである。嘘を信じさせても結果よければ全てよし。これがまた、商人として生きていた当時の、嘉兵衛のポリシーだったのかもしれない。
無理な金策の方法はともかくとして、その大金を何に使うのか…それもなまずと釜鳴り、「離為火」の卦と何の関係があるのだろうか…?
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