江戸時代、犯罪者として入牢するということには、想像を絶するものがあった。
安政の大獄で捕らえられた国事犯などは、ひと月も経たないうちに獄死する者が後を絶たず、これはてっきり、一服盛られたのだろうという観測があった。
しかし、当時の獄舎の状態を知ると、ことさら毒を盛らずとも、投獄が即座に死に直結することは想像に難くない状態だった。
嘉兵衛(高島嘉右衛門)は入牢と決まった時、ある程度の困難は予想したが、そこにはさまざまの試練を経てきた経験に裏打ちされた自信というものが、多少はあった。
なにしろ嘉兵衛には、4年間にわたる東北での鉱山生活の経験がある。酷寒の中の重労働、人間の食物とは思えないほどの粗食に耐えて来た身である。どれほどの苦労があろうと耐えてみせる、との覚悟で臨んだのだった。
しかし、その覚悟も、実際に獄舎に入れられてみると、予想を超えるその光景の凄惨さを目の当たりにして、たちまちに萎えてしまった。
当時の常識として、入牢の際にはまとまった金銭を所持して行って牢名主に差し出さないと、半殺しにされても仕方がないという掟がある。もちろん表向きは金銭の持ち込みは禁止だが、嘉兵衛は胴巻きに百両の小判を隠し持って行き、牢名主に差し出した。
まさに地獄の沙汰も金次第という訳で、金額の多寡によって牢中での居心地は極端に違う。居心地というよりも、生死を分ける紙一重のところで、どっちに転ぶかを決定されると言って良いだろう。
百両は大金である。牢名主に対してもその効き目は絶大だった。嘉兵衛はうまく畳一枚の座所を与えられた。新入りとしては破格の待遇である。
牢の大きさは約30坪。そこに定数百人が24時間起居する生活である。牢名主は10枚の畳を積み重ねて、一人でその上にあぐらをかいている。他には副名主ほかの役付けが12人ほどおり、その格によって、決まった数枚の畳を重ねて占領している。
しかし…30坪に百人である。他の人間は1畳8人という掟が定められていた。肩を寄せて体をすくめ、棒のようになってジッとしていなければならない。衣服のほうも、仕送りがない限りは単衣一枚しか支給されない。食事もひどいものだった。
もともと少ない食事が、100人ぶんのうち30人ぶんは役人に頭をはねられて、出入り商人に払い下げられる。残りの70人ぶんのうち、30人ぶんは役付けや重罪人が取る。こういう場所では重罪人ほど大きな顔をするのである。やっと残りの40人ぶんが、他の囚人70人に分け与えられるというわけだ。
初日、この状況を見た嘉兵衛は、さすがに不安におののいた。自分は百両の賄賂のお蔭で、畳一枚と一人前の飯にありつけたが、これがもっと減量されたら、到底長くは持つまい…
さっそく、翌日の朝早く、一人の男が呻きだした。何の病気かは知らないが、顔全体が茶色に変わり、唇は黒く、眼は窪み頬も落ちて、とてもこの世のものとも思えない形相である。
男は寝かせて欲しいと呻くが、畳一枚に8人という掟は変えられない。はたの者も迷惑そうにするだけで、助けてやる余裕などない。
「そろそろあの世へ送ってやろうか。このまま長引かせても迷惑になるだけだ…」
役付け囚人が小声で相談していたかと思うと、手足を押さえつけられた男は、板の間に引きずり出され、濡れ手拭で鼻と口を覆われ、あえなく息を引き取ってしまった。
外へ運び出された男の死体は、そのままムシロを被せられ、土間に放置されている。
「あのままでいいのか…?」
驚きのあまりに小声で呟いた嘉兵衛に、隣の畳に座っていた世話役の一人が言った。
「仕方がないのだ。牢内の死者は一日に全部で4人に限るというきまりでな、当然、日によって死人の数には差があるが、他の牢の死者も含めて一日あたりの頭数を合わせる為に、ああやってしばらく放置しておくのだ」
この計算で行くと、役付き以外の70人はふた月ほどで全て死に絶える筈なのだが、毎日同じぐらいの数の新入りがあるので、牢内の囚人の数は、ほぼ一定を保っている訳である。
「あのー…、この牢を無事に出牢する人間はいるのでしょうか?」
嘉兵衛ならずとも、この状況を見ると不安になって来ようというものである。
「この伝馬町の牢では、普通の人間ならまず不可能だな。ほかの牢に移されれば幾らかの望みはあるかもしれないが…」
嘉兵衛はこの瞬間、さすがに戦慄してしまった。自分に対する判決は、為替売買容疑の仲間とされる二人の外国人が日本に帰って来て事情が明らかになるまで、となっている。当然のことながら、外国人が帰ってくる筈がない。とすると、期限なしの入牢である。嘉兵衛は暗澹たる思いになったが、この話かけてきた世話役に少し話しかけてみる気になった。
犯罪者の中でも極悪人だけが生き延びるチャンスの多いこの牢のことだから、当然周囲の男たちは悪相凶相貧相孤相、とても人間とは思えないような面構えばかりである。そんな中でこの男だけは、このまま娑婆へ出してもおかしくないようなまともな顔つきをしている。声も柔らかなところを見ると、人並みの生活をしてきたのだろうと思われる。
「あなたは何の罪でここに入ってきたのですか?」
「私は横浜無宿の勝郎と言いますが、実はれっきとした侍の子ですよ。あなたは小判を外国人に売った罪ということですが、私も似たようなものです。朱を売ったのです」
当時、朱は朱座という役所の独占販売に決められていたので、国禁を犯したことには間違いないが、刑死に値するような罪とは思えない。嘆息する嘉兵衛に勝郎が言う。
「まあ機会があったら、私の身の上話をお話することがあるかもしれませんが、ここにおられる以上は体には気をつけて下さい。と言っても、できることはあまりありませんが、今死んだ男のように、牢死病にかかるのが怖いのです」
「牢死病…?」
「娑婆ではかかることもないでしょうが、ここでは普通の病気です。入牢してから十日もすると誰でもかかります。軽いか重いかの違いですね。私も罹ったのですが、こうして畳を一枚頂いて、夜は横になって眠れたせいで助かったのです。畳1枚にスシ詰めでは、到底助からなかったでしょうね」
「コロリのような病気なのでしょうか?」
「いや、コロリのような流行り病だったら一度に全部やられてしまいますが、そうではないのです。顔色が茶色になり唇が真っ黒になるのは同じですが、治ることもあります。罹ってから十日が勝負ですね。」
「十日すると、元の体に返るのですか」
「いや、まだそれからが大変です。熱が下がり命はとりとめても、それから全身に疥癬のようなものが出てきます。肌だけではなく血肉まで食い荒されるような勢いで、痒いというよりも凄まじい痛さです。それこそ身悶えするような苦しみですが、二十日ばかり過ぎればどうにか私のように命拾いするようです」
「一ヶ月の辛抱というところですか…」
「この苦しみは、経験してみなければ、まず分らないでしょうな…」
牢死病…この不気味な病気のことを聞き、実際にその犠牲者の最期を見た嘉兵衛は、不安と怒りでその夜は一睡もできなかった。
入獄最初の夜が明け、二日目となった。嘉兵衛は牢名主の前で身の上話をさせられることになった。長い牢獄の生活で退屈しきっている為か、牢名主をはじめとした役付きの囚人達は、流れるような嘉兵衛の話術と、最近の世情の話に聞き入っていた。
「まるで講釈を聞いているようだ。なるほど…異人がやってきてから、世の中はそういうことになっていたのか」
感心した牢名主が、興味深げに身を乗り出してきた。
「ところで、お前は人相手相を見るということだが、どうだ、一つこの役付12人の中で、近々御仕置になりそうな男がいる。どんなものだろう、それを当てられるか?」
嘉兵衛には、昨日の牢死病のことを教えてくれた勝郎以外、他の囚人に関しては、何の情報もない。仕方がないので、嘉兵衛は黙って一同の顔を見回した。
そうすると中に一人、眼の周りが緑色に近い青に変わっている男がいる。元気そうには見えるが何となく影が薄い。声も魂が抜けたように空ろな感じである。近く死罪になるのはこの男だ…嘉兵衛は直感した。
「申し上げても構いませんか?」
「構わない。本人も覚悟しているし、俺が役人から聞いた話では2~3日うちに御仕置とのことで、その日の晴れ着も届いている」
「それでは申し上げますが、名主様から数えて右に三番目の若い方かとお見受けします」
「よく当てたな。この富蔵は主家に火を付け、百両の金を盗んで田舎へ逐電した男だ。それでは、あと何日の命か分るか?」
「一から八までの数を二つ、一から六までの数字を一つ、思うままに言っていただけませんか」
「一……二……六」
なるほど…と嘉兵衛は易経の文句を思い出しながら言った。
「おそらく六日のうちには…」
次に一から六までに数字を一つ言わせたのは変爻だが、六番目なので一番上の上爻変となる。「沢天夬」の上爻変は「号(よば)うなし、終に凶有り」という爻辞で、まさに泣いても叫んでもムダ。ついに大凶が訪れるというそのものズバリの爻。 易の立て方にはいろんな方法があるが、高島嘉右衛門はこの略筮法が得意だったそうだ。易を立てるのは知識や経験も必要だが、とにかく精神集中が最も必要なので、本筮や中筮法だとだとあまりに手順が多くて長時間かかって疲れてしまい、集中も途切れがちだ。実際上は三回ぐらいがいいところかも知れない。 筆者なんかも本筮法や中筮法で時間をかけるよりは、事前に潔斎した上で読経でもしてしっかり心身統一をはかってから、略筮法で立てたほうが良いと思う。 |
ちょうどその時、牢役人がやってきて、格子ごしに何か言い渡した。
「なるほどな…富蔵、明日のお言い渡しだそうだ。それでは、これがわれわれの餞別だ」
名主はコヨリで作った数珠を富蔵に渡した。
「まあ、市内引き回しの上、打ち首獄門、結果は分っているが、男らしくお刀を頂戴しろ」
富蔵のうなだれながらも執念のこもったような視線が突き刺さるのを感じて、さすがの嘉兵衛もゾッとしてしまった。
しかし、調子に乗ってしまったのは牢名主である。
「どうだ?俺は半年入牢の上島送りと刑は決まっているので、首を斬られる心配こそないものの、島送りになって、いったい生きて江戸に帰って来られるものだろうか?」
「お手を拝見します」
差し出された掌の生命線を調べてみて、嘉兵衛は眼を見張った。なんと、美しく長い生命線である。親指の付け根の丘をぐるりと回って、掌の外側にまで伸びている。
「八十以上の長寿でございます。それまでには幕府の御代変わりもありましょう。その時の恩赦で江戸へ帰れると鑑定いたしました。何年先になるか、そこまで詳しいことは分りませんが」
「うむ…お前は占い師になっても食えそうだな」
牢名主は嬉しそうに言った。彼にとっては、嘉兵衛のこの鑑定は、持参金の百両にも増して価値のあるものだったに違いない。何しろたった今、刑死の運命をズバリと言い当てた、その当の嘉兵衛が自分の長寿を約束してくれたのである。上機嫌にならないわけがない。そして、このお蔭で、嘉兵衛の牢内での安全と待遇は保障されたようなものだった。牢内で名主の気に入られるかどうかは、まさに生死の分かれ目である。
「よし、お前に褒美としてこれをやろう。前にここに入っていた水戸の浪人で勤皇派の侍が残していった、占いの本だということだが」
手渡された「易経」上下二巻を見て、嘉兵衛は何か、感無量の気持ちになった。もちろん、四書五経の中の一冊ではあるし、子供の頃から親しんできた本である。しかし長じてからは商売に気を取られて、めったに本を書物を手にすることもなく、内容の記憶もだいぶ曖昧になっている。
いつ終わるとも知れぬこの獄中生活で、この「易経」を友として生きることも、一つの生き方には違いなかった。
それから一月ほどの間に、嘉兵衛は何度となく、この易経二巻を繰り返し熟読した。
もともと、素読の素養があるので、理解は早い。漢文二万字余りのこの本の示唆する内容も今はよく理解できたし、他にやることもないので、一文字残さず暗誦できるほどになった。六十四卦の何爻変、と言うだけで、文章がパッと頭に浮かぶ。
さて、これを実占するには道具が必要だが、必要は発明の母、死罪に赴く男たちへの手向けとして送られるコヨリの数珠がヒントになった。コヨリで50本の筮竹を作り、同囚の男たちの過去を根気よく占う作業を始めた。
これが、当たる…
怖いぐらいに当たるのだ。
ある意味では、占筮の環境としては、これぐらい最適なところはなかったのかも知れない。他にやることもなし、鑑定の実習材料になる男達は、様々な災難や数奇な運命を辿って来た者ばかりである。一般人とは人生の波乱の度合いが違う。文字通りに生死を賭けた占易材料である。その来し方行く末の劇的な展開を読むには、これ以上の環境はなかったのかも知れない。
嘉兵衛が天性の集中力と予知能力に磨きをかけて、後に易聖とまで謳われる力をつけたのは、この伝馬町の獄舎での研鑽があってのことだった。
心配していた牢死病も幸い軽く済んだ。百両のお蔭で牢医者の手当てや投薬も受けられた。地獄の沙汰も金次第…とは全くこのことである。
そもそも、この易経という書物は、周の文王が獄舎でまとめあげたものを、後に孔子が編纂し直したものだと言われている。従って、日本の易聖・高島翁が、やはり獄舎で易経を学び直したのも、ある意味で因縁のようなものかも知れない。
もし読者諸兄が何かの事情で受刑者となったアカツキには、是非とも易経を携帯してゆき、この機会を利用してみっちりと勉強されることをお勧めしたい(笑)。刑務所の図書室には易経は必須と思うが、如何?
もちろん、筆者が塀の中で暮らすことになっても、十分にこの好機を生かす積りでいる。人にばかり薦めているのでは説得力がないので(笑)。(何でこんなことになっちゃったんだ~涙…)などとは毛頭思わず、易聖・高島翁の後塵でもいいから少しでも近づく、絶好のチャンスと思うことにしよう。(それに酒が少しあれば、なお結構なんだけど…無理?)
しかし反面、現在の「高嶋易断」というのが、かなり怪しい占い師集団の代名詞になっているところを見ても、やはり易と刑務所は切っても切れぬ因縁があるのか…と、妙な納得をしてしまう筆者でもあるのだが…。
この伝馬町の大牢で半年を過ごした嘉兵衛は、翌年、文久二年三月に浅草溜の牢に移された。二番牢である。嘉兵衛はそこで、目出度いかどうかは知らないが、副名主となったのである。
さて…この浅草の牢は伝馬町の牢よりも少し大きく、120人ばかりが入っていた。その中で重罪犯は70人に達すると言う、非常に物騒なところである。
ある日、その中の主だった4人が、嘉兵衛の座に近づき、声をひそめて囁いた。
「親方、親方を男と見込んで頼みがありやす。誰にも口外はしねえで、是非お聞き届け頂ければ、孫子の代まで恩に着ます。」
明日をも知れない囚人の身分で、もちろん家族もないのに孫子の代までというのも妙なものだが、笑ったり軽くいなす訳にもいかない。怒らせてはどういう暴挙に出るか知れない危険な男たちだ。嘉兵衛は話を聞いたが、それは思いがけない計画だった。
脱獄の相談である。占いで、脱獄できる方法を見つけてくれという頼みだ。
彼もさすがにこの時ばかりは心底怯えてしまった。死罪獄門になる者達なので、脱獄以外には道がないと思いつめたのだろうが、嘉兵衛にとってはまさに自ら死地に入る、これ以上ないほどの無謀なトンデモ話だ。
常識で考えて、この牢からの脱獄が成功する訳がない。
この牢じたいを脱出できても、外囲いの門は突破できない。さらにその外側には常時、多くの牢役人が鉄砲を携えて厳重な警戒をしている。それも仮に破れたとしても、その外の高い塀を乗り越えて、市中まで逃げ出すことができる訳がない。
しかし、死罪を目前にした男たちは、その無理を承知の上で強行しようと言うのだ。追い詰められた人間の絶体絶命の悪あがきだが、こういう心境になっている人間に、常識で道理を説いても一向に通用しない。
とは言え、嘉兵衛がこの脱獄計画に参加すれば、断首の刑は火を見るよりも明らか。しかし、男たちの計画に真っ向から反対すれば、この場で襲い掛かって来て絞め殺されないとも限らない。答える言葉がなかった…
一種の脅迫である。嘉兵衛は冷たい脂汗が流れるのを感じながら告げた。
「待て。念の為に一占立ててみよう」
占いに頼るというよりも、この場で幾らかでも時を稼ぐのが目的と言うしかない。占ってどうなるものでもなさそうなのだが…
この時ばかりは、嘉兵衛も時間稼ぎのため、略筮法ではなく、中筮と呼ばれる時間のかかる方法を、わざと用いた。姑息な手段と笑わば笑え、とにかく、行くも戻るも絶対絶命なのである。
不思議な啓示が現れた。
「天沢履」(てんたくり)の「水風井」(すいふうぜい)に之く(ゆく)
この「天沢履」という卦は、「虎の尾を踏みながら、人を食らわず。亨る(とおる)」である。虎の尾を踏むという危険を冒しながらも、食われることもなく、無事に危地から脱出できる、という卦である。
それが変わって「水風井」…井戸を現す卦になるのだ。「天沢履」はともかく、「水風井」の意味がどうも分らない。
しかし、この場でそれを考えている余裕はなかった。
「親方、占いは何と出ました?」
ねっとりと凄みのある声を聞き、嘉兵衛は思い切って口を開いた。
「叶いませんな。この計画は成功しないと出ました。実は私も伝馬町の牢に居た時から、何度もそのことは考えていた。しかし、私は度胸がなくて、いざとなると手足がすくんで動けませんでした。今回も同じことになる、と占いにはそう出ているのです。私を交えず、あなたがただけなら成功するかもしれません。まあせっかく打ち明けていただいたことですから、このことは誰にも漏らしません。事が起こった時にも妨害はしませんから、私抜きで計画を立ててみてはどうですかな」
囚人達は顔色を変えた。はっきりと殺気を漲らせ、嘉兵衛を睨み付けた。
山の中で虎に遭ったら、決して眼をそらしてはいけない、という教えがあるが、この時の状況も似たようなものかもしれない。気合と気合の対決となったが、しばらく睨み合いが続いた後、男達の気合が続かなかったか、次第に殺気は薄れてゆき、なんとかその場は終えることができた。
4人が去って行った時、嘉兵衛は易の神秘を思った。
それから数日は何事もなく過ぎ去った。嘉兵衛は4人を監視し続けていたが、ある時4人が牢番に鰻と酒を注文しているのを耳にした。もちろん、そんな物が正式には差し入れられる筈がないのだが、相場の四倍の料金と三倍の使い量を握らせれば、望むものはほとんど何でも手に入る。公然の秘密のようなものだ。
(水風井…水風井…この意味は何だろう……)
嘉兵衛はあれ以来、この卦の意味を考え続けていた。
「三十前には万両分限になれるが、人災によって命を縮めることになる」という、昔見てもらった浅草の老易者、三枝の言葉が思い出される。序でにその時には、生死の危機に直面したら、できるだけ高いところに逃げろ、と言われていたのだが…
4人は、運ばれて来た酒と鰻に舌鼓を打っている。酒は行水の湯を運ぶにない桶に湯を入れて徳利を浸し、自然に燗がつくようになっている。鰻も竹皮に包んで人目につかないように気を配り、手馴れたものだ。
使い料をたんまり貰って上機嫌の牢番に、4人はまた金を掴ませ、今度は月代を手入れする鋏を注文した。いったん、三寸の鋏を差し入れさせ、次にはそれを六寸のものに変えさせている。
(刃物を手にするからには、破獄の実行も間近いな…)
嘉兵衛は心中穏やかではないが、どうすることもできない。
見る間に四人はこの鋏を使って、手製の武器を作り上げた。曲り目の部分からヤスリで切断し、瓦を砥石にして刃を立て、湯樽を壊して柄にし、麻糸を巻いて短い手槍のようなものにする。ほかに、匕首に似た凶器など、各自が一つづつの武器を手にした。
文久二年、八月十八日の午後十時ごろのことである。
新入りの囚人を入れる為に牢屋の戸が開いた。四人はこの一瞬の隙に乗じて、次々に牢を脱出したのだった。取り押さえようとした牢番三人は、たちまち手製の武器で突き殺された。外囲いを開ける鍵も四人の手に渡った。
他の囚人も同時に牢を脱出しようとする。しかし、外囲いは開かない。こういう場合の慣例として、新入りを中に入れた際、内からではなく、外から鍵をかけてしまうのだ。
早鐘が聞こえ始めた。暴徒の発生を告げる非常召集の合図である。
(鐘…鐘…そうだ!道成寺だ!)
この瞬間である。暗い牢内で固唾を呑んでいた嘉兵衛は、初めて易の啓示する秘密に思い当たった。
道成寺というのはもちろん、安珍清姫の伝説に基づいて作られた能の『道成寺』のことである。女人禁制の掟を破って訪れてきた白拍子花子が、舞を続けているうちに鐘が地響きを立てて地に落ち、花子は落ちて来た鐘に呑み込まれてしまう。僧侶が集まって来てこの鐘を引き上げた時には、花子は蛇体に変じていたという芝居だ。
牢と道成寺には何の関係もなさそうだが、じつは牢内にも道成寺というものがあった。
牢内は湿気がひどく、衣類などはすぐにカビてしまう。それを防ぐ為に、身につけている獄衣以外は、すべて大籠に入れておくという決まりがあった。その大籠は牢の天井から吊り下げられ、必要の際には綱を引っ張って上げ下ろしする。この籠を牢の隠語では道成寺と呼んでいた。
この籠を上げ下ろしする上下の動きは、それこそ井戸水を汲み上げるつるべとそっくりではないか。これが「水風井」の意味だった。
(この籠の中に一時身をひそめれば、この直後に展開されだろう、地獄絵のような修羅場から、無事に逃げ延びることができる…)
非常事態なので、牢内の統制はまったく無くなっている。名主も十枚の畳を重ねた自分の座を離れて、入り口の辺りをウロウロしている。
(今だ…!)
嘉兵衛は一番高い名主畳上にとび上がり、天井の羽目板に手を掛けて、道成寺の中にとび込んだ。中にある衣類を投げ出し、息をこらして身をひそめた。
直後に鉄砲の音が響いて来た。牢の外に溢れ出した囚人達に、鉄砲を発射したのだった。暴徒と化した囚人達が、悲鳴を上げながら転がるように牢内に飛び込んで来る。
「裏切り者だ!嘉兵衛のお蔭だ!」
「嘉兵衛を殺せ!」
もう自制心も何も無くなって、すっかり逆上してしまった首謀者達は、その場に居ない嘉兵衛に向かって刃を振り回す。それに対抗して棍棒を振るい身を守る者も居て、狭い牢内はまさに修羅場と化してしまった。誰が誰だか分らないままに乱闘に巻き込まれ、踏み殺されてしまった囚人も少なくなかった。
阿鼻叫喚地獄は一刻(二時間)ほども続き、夜が白々と明けるまでは、時折かすかな呻き声が聞こえるばかり。道成寺の中で震えていた嘉兵衛は、朝の光で下を見下ろして愕然となった。眼下はうず高い死体の山だった。瀕死の重傷の人間も混じっているが、その時点では全員が生死は定かではなかった。
そのうち、多数の役人がやって来たが、牢内には入って来ない。下手に中に入って、暴徒と化した囚人に殺されでもしては、というのは人情だろう。格子の外から、声をかけるのみだ。
「誰か生き残っている者はおるか」
嘉兵衛はなかなか声を出さなかった。今少し、様子を見届けて安全を確認してからでも遅くはない。
役人は名主から順番に、一人づつ名前を読み上げたが、返事する者はほとんど居ない。時折呻き声がするのみだ。
これでは危害を受ける恐れはないと見定めたか、役人達が中に入って来た。余りの惨状に顔を見合わせてため息をついている。
「ひどいものだな…この世の地獄とはまさにこのことか…」
「これでは、無事に生き延びた者は一人もおるまいな…」
「一人でも居れば事のいきさつも分るだろうに、これでは到底無理だな」
嘉兵衛はこの機を捉えた。
「副名主。嘉兵衛、生きながらえてここに居ります。」
役人達は、驚いて道成寺を見上げた。名主畳の上に飛び降りた嘉兵衛が思わずよろめいた。両手をついて起き上がろうとした時、恐ろしいものが目に映った。
目前の死人の山から、一つの体が起き上がった。四人の首謀者の一人、権之助という男だった。深手を負いながら息を殺していたのだった。すさまじい執念である。血みどろの凶器で突っかけてきたのをどう避けたかは覚えていない、右腕に焼け付くような痛みを感じた瞬間、嘉兵衛は気を失ってしまった。
気がつくと、そこは役人達の詰所だった。包帯で巻かれた右腕には鋭い痛みが走ったが、嘉兵衛は身を起こした。
「いや、あの状況では誰一人として生きてはおるまいと思ったが、道成寺とか考えたもんだのう。」と役人が感心している。
嘉兵衛を襲った権之助は、取り押さえられた後、既に息を引き取ったということだった。文字通り、嘉兵衛は牢内での唯一の生き残りとなったのだった。
問われるままに一部始終を物語ったが、現状と嘉兵衛の供述が一致したため、事は無事に一件落着となった。
役人が去った後、嘉兵衛は見るともなしに自分の右手を眺めた。
その途端、アッと声を上げてしまった。嘉兵衛の右手の生命線には大きな障害線(横線)が入っており、これが昔、易者に人災によって生命が危うくなると告げられた所以だったが、その障害線がものの見事に消滅している。
続いて改めた左手も、同じように障害線は消えていた。美しくくっきりと伸びた生命線が、親指の付け根をカーブして手首まで伸びている。
嘉右衛門の学んだ相術の本でも、このような例は稀有のこととなっている。
「有難い。これぞ神仏の加護だ。九地の底から蘇ることが出来たのだ」
嘉兵衛は西におわす仏に向かって、深く合掌するのだった。その後嘉兵衛は、傷の療養中に妻の訃報に接した。奇しくもその死は、あの脱獄事件の夜のことだった。
傷も癒えた後、嘉兵衛は江戸お構い、佃島流刑という言い渡しを受けた。当時は佃島は東京湾に浮かぶ小島でしかなく、八丈島へ流すほどでもない、刑犯罪者の流刑地となっていたのである。
ここへ来て二日目に、あの伝馬町の牢で知り合いになった勝郎が尋ねて来た。嘉兵衛の命拾いの話には、勝郎も相当に驚いたようである。
「しかし、私はこうして九死に一生を得ましたが、実は女房があの晩に死にました。きっと私の身代わりになって死んだのかもしれません。子も流産してしまい、哀れな女でした…」
勝郎と四方山話をするうちに、お互いの罪状や法律の話が出た。そこで三瀬周三と言う男の話が出た。嘉兵衛と勝郎は仮にも国禁を犯して入牢、流罪となったわけだが、この三瀬周三の場合は実にひどい話だった。
彼は有名な蘭医シーボルトと姻戚関係にあり、その縁でオランダ語と英語はペラペラだった。それが身に災いして、投獄となってしまったのだ。
当時、幕府とイギリス公使との間に、ちょっとした外交交渉の必要なことが起こった。幕府の通訳としてやってきたのは福沢諭吉、福地源一郎の二人である。ところが二人とも、英文の書物の翻訳ならできるが、会話となるとさっぱり役に立たないのである。
ここに、三瀬と腹違いの兄弟にあたる男にアレキサンドルという男がおり、イギリス公使の書記を勤めていた。このアレキサンドルが交渉の難航ぶりに業を煮やし、公使に三瀬を紹介して通訳に当たらせた。そのお蔭で双方の意思がよく通じ、交渉は成功裏に終わった。
ところがこれが、三瀬にとってはとんでもない災厄の種になってしまったのだから、分らないものである。
その当時、外交上の問題はすべて政府が一手におさえ、民間人、諸藩が立ち入ることは堅く禁じられていた。通訳も幕府の許可のある者しか許されていなかったのだ。そこに三瀬がイギリス側の人間の紹介で入ってきたものだから、幕府はこれを怪しみ、厳しい詮議となってしまったのだ。
三瀬の身分は宇和島藩士だったが、詮議された宇和島藩の留守居役は、藩に迷惑のかかることを恐れた為か、そのような者は藩士の中には居ないと頑張り、身元不明者とされてしまった三瀬は、言語道断の服役となってしまったのである。
この佃島へ送られてきて既に五年になるということであった。嘉兵衛は天を仰いで嘆息した。「そのような気の毒な人がいるとは。とにかく会ってみたいので、機会を見つけてくれませんか」
その機会は意外に早くやってきた。周三は石臼で油を絞る重労働を勤めさせられていた。嘉兵衛は人望も厚かったせいか世話役を任命されたので、それを利用して周三を自分の傍近くに置いた。そして、煎薬係りに任命した。何しろ医家の親類だからこれはお手の物である。
「やっと適材適所の仕事が見つかりましたな。」
「煎薬は親譲り、女房譲りの腕ですから当然です。それが分るまでに5年もかかるとは、今の幕府は上から下まで、頓馬の阿呆のアンポンタンばっかりだ」
幾らなんでも流刑中の身分でこんな大胆な言葉を吐くとは、これは只者ではない…興味を持った嘉右衛門は、周三の運命を占ってみた。
「火風鼎」(かふうてい)鼎(かなえ)実あり、我が仇病あり、我につく能(あた)わず。吉。終に咎めなきなり。
なかなか意味の深い卦だった。鼎とは昔、周の時代には家宝として珍重されたものである。「鼎の軽重を問う」という言葉があるように。このような境遇にならなければ、この三瀬周三も国の宝と言われるような重要人物であったに違いない。しかし、その仇なした敵は重い病に罹ってこちらには構っていられない、という卦である。放免の日も近いと嘉兵衛は読んだ。
嘉兵衛は周三にその卦の結果を伝えた。
「あなたの易は当たるということですが、いったいそれは何時ごろのことになるのでしょう?」
「早ければ三ヶ月から四ヶ月と見ました。そんなに長くはかかりません」
三ヵ月後、嘉兵衛の予言は的中した。時代の変化と共に、幕府の統制は緩みだし、各藩はそれぞれ独自の判断で行動を取らなければならなくなってきた。そうなると、語学に堪能な三瀬周三が必要になる。アレキサンドルの尽力もあったのだろうが、宇和島藩からは使いの者が紋服羽織袴、大小の刀まで殿からの賜りものを持参して迎えにやって来たのである。
維新後、三瀬周三は大阪に医学校を創設し、ドイツ人医師数名を招いて、近代医学を日本に導入する橋渡しとなった。嘉兵衛との親交は生涯にわたって続いたが、あの佃島で重労働から軽作業に転向させてもらった時のことは死ぬまで忘れられないと、絶えず繰り返していたそうである。
勝郎もその後放免となり、後には嘉兵衛の番頭格として尽力することになる。
嘉兵衛にもやがて、運命の春が巡って来た。奇しくもそのことにも、易の力が関与していたのである。
「平成16年9月記」
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