高島嘉右衛門は、一生涯を通じて様々な事業に手を染めた。しかし嘉右衛門伝の面白いところは、月並みな立志伝中の人物のように、単に事業を成功に導いただけではなく、意外に失敗も多く、単なるめでたしめでたし、ではないところである。
まるで易の卦のように、吉凶禍福の変遷があり、まさに水野南北の予言どおり、人生そのものが九天九地の相……
われわれ凡人とは、そのアップダウンの振幅幅もケタが違う。
よく言われることなのだが、嘉右衛門は創業に強く守勢に弱かった、という特徴がある。事実、明治三年から創立にかかった高島学校にしても、当時としては日本最大の洋式学校で、それなりの人材を輩出している。
しかし、教育事業というものは、営利事業の合間にできるようなものではなく、専門に一生を投げ打つぐらいの仕事である。それを嘉右衛門はあっさりと横浜市に寄付した。
彼にしてみれば、新時代に向けての教育事業の雛形だけを自分が作り、それを後を告ぐ者が自由に発展させていってくれればよい、ぐらいの気持ちだったのかもしれない。
この高島学校も、福沢諭吉を校長に迎えるべく、礼を厚くして就任を要請している。あいにく断られてしまったが、結局この学校は、創立間もない明治7年に火事で全焼し、廃校になってしまっている。
仕事のしかたというか、能力の方向が、新企画、創業という方面に興味が強く、いったん事業を立ち上げてしまうと、あまり維持の方には関心が向かわないタイプだったのかもしれない。成功者というよりは、先駆者とでもいうべき存在なのだろう。
一つの例として、次のような事件がある。
高島学校開校して間もない時期に、嘉右衛門の元へ、オランダ領事のタックが尋ねてきた。
ドイツ貨客船の売り物があるというのだ。これを買い取って運航事業に乗り出せばたいそうな利益があがる、という触れ込みである。
しかし、嘉右衛門は高島学校を創立したばかりで、ちょうど資金的に余裕のない時期である。あまり乗り気ではなかったが、とにかく現物を見ようということになった。
レイン号という、3、500トンの船である。上等客室6部屋、中等客室4部屋で、貨客船としてはいちおうのものである。船内を見回ったところで、食事でもということになった。
ところが、船は静かに動き出した。怪訝そうな嘉右衛門に、タックは言った。
「あなたの為に試運転してお目にかけますよ。食事が済む頃にはどのへんまで行っているでしょうかね」
四方山話を交えながら船長自慢の西洋料理のフルコースを終える頃には、たっぷり2時間を経過していた。
「ここはどの辺りかな?」
「もうじき、浦賀の沖ぐらいでしょう」
「浦賀ですか?!」
さすが、最新式の蒸気船である。普通の外輪船とは比べ物にならない速力である。海上輸送の経験のある嘉右衛門のことなので、なおさらにびっくりした。
「あれが観音崎です。一つ覗いてみて下さい」
と渡された双眼鏡で観ると、確かに間違いない。
この船を手に入れれば、無限の使い道があるだろう…初めて乗った蒸気船の快速に舌を巻いた嘉右衛門は、つい口走ってしまった。
「大変な船だということは分かりますが、私も学校の開設などで、今ちょうど資金的に余裕のない時期で…値段が安ければ考えてみるのだが…」
タックはこのチャンスを逃がさない。
「値段のほうなら、幾らでもご相談に乗りますよ。実は船主のほうにも事情がありまして、安くていいからと売り急いでいるのです。一体、幾らなら買いますか?」
嘉右衛門は本気で買う積もりではなかったので、冗談半分に法外な安値を言ってみた。
「3万ドルぐらいなら買ってもいいと思いますがね」
「幾らなんでも3万ドルは…この船は、解体して鉄材だけを処分してもそれぐらいの値打ちはありますよ。もう一声、どうですか?」
「それでは、思い切って4万ドル。それ以上は1ドルも出せません」
「4万ドルでは本当に捨て値のようなものですね…」
タックは渋い顔をしていたが、一瞬後には笑って右手を差し出し、握手を求めた。
「結構です。それでは4万ドルでお譲りしましょう」
嘉右衛門は対価を支払い、船を引き取って日章旗を掲げ、「高島丸」と命名した。横浜ー神戸ー長崎間には、既にアメリカの船会社が定期航路を開いていて、新しく個人の割り込む余地はない。嘉右衛門はまだ定期航路の無かった横浜ー北海道間に定期航路を開いて、この路線の海運事業を独占しようという計画だった。
その積もりで免状を申請し、その許可も得て、いよいよ処女航海に出る積もりで準備を整えていた時のことである。
副島外務卿、寺島外務大輔の二人がフランス公使館を訪れた後、高島屋旅館で一泊した。呼ばれて部屋に出向いた嘉右衛門に向かって、二人の外務役人は浮かない顔で言った。
「高島さん、あなたはあの船をお買いになる時、易を立てられなかったのですか?」
いきなり言われて、嘉右衛門もびっくりしてしまった。そう言えば、急に船上で食事のついでのような成り行きで契約してしまったので、易を立てることには考えが及ばなかったのだ。
「いや、政府のほうも不注意でした。実は、今日フランス公使に呼ばれて厳重な抗議を受けたのです。あの船の免許は取り消さねばなりません」
日本は中立国の立場だったので、政府高官も嘉右衛門も、あまり注意を払っていなかったのだが、当時、フランスとドイツは交戦状態で、全世界の至るところで睨み合っている状態だった。
横浜では、ドイツの軍艦12隻と商船2隻が停泊しており、同時にフランスの軍艦4隻も待機して睨み合っている状態だった。中立国である日本の横浜港内で大砲の撃ち合いをするわけにはいかないが、いったん浦賀沖3海里以上の外海に出れば、交戦となっても仕方がない。そこへ、嘉右衛門がドイツ船を購入して外海へ出れば、どうなるか分からないというわけだ。
「たとえ商船でも、外海に出れば撃沈されても仕方がないのです。日本はいざ知らず、外国の法律ではそうなっているのです。ここでドイツの船を買い、その船で航海するというのは、中立国の義務を欠くものである。買い手が個人でも国家であっても法の原則に変わりはない。もし外海に出るならば、艦隊は即刻これを追撃して外海で撃沈すると、今日フランス公使から厳重な申し入れがありまして…。
高島さん、もしこのような事情をご存知だったならば、この船をお買いになる筈がありますまい。あなたならば、この船の処女航海には必ず乗船されることでしょうし、それを中止なさるにはその準備も必要でしょう。それで、このように、非公式にご注意に伺ったわけです」
二人に丁寧に礼を述べて部屋を出た嘉右衛門は、はらわたが煮えくり返る思いだった。あの日も船を下りてからいろいろと事情を調べ、タックはこの船を抵当として船主に金を貸し付けていることが分かった。それが質流れになったので、タックの裁量で船を処分したのだと、そこまでは調べがついたのだった。
しかし、万国公法(現在の国際法)のことまでは、全く気づかなかった。
これだけの最新式の貨客船一式を4万ドルとは、実際驚くほどの安い買い物には間違いなかった。ところが、この買い物にはこのように大きな裏があったのだ。
この船はその後、嘉右衛門の考えとフランス公館との間の密約により、無灯火でこっそりと出航し、船足の速さを武器に逃げ切るなどの、かなり強引な方法で航行を開始した。既に貨物輸送の請負を開始していたので、他に選択肢がなかったせいでもある。
また、現在ならば考えられないことだが、当時の商人の仕事のしかたとして、個人と店の信用でいったん請け負った仕事は、如何なる事情があろうと、完遂するのが鉄則である。それができなければ、その人間は自らの商人としての看板を下ろさなければならない。
前章までで、嘉右衛門の過去の仕事の仕方を見て来た方にはご納得いただけるだろう。こうして、横浜ー函館間の海上定期航路が開かれたのだが、この路線はまだ時期尚早だったのか赤字続きで、わずか2年ほどで運航停止となってしまった。当時の政府内に、海運の重要性に着目する人物が存在しなかった為、補助金の申請をしても調査さえされなかったと言うことである。
しかしその後間もなく、岩崎弥太郎が軍事輸送を一手に引き受け、後日の三菱財閥の基礎を築いたのだから、このこの海運に限っては、嘉右衛門の事業は失敗だったのかもしれない。
しかし嘉右衛門自身は、自分の横浜時代の四大事業として、学校、ガス事業、横浜港埋め立てに加えて、この海運を挙げている。実際の利益の多寡、世間の評判や知名度とは別のところで、嘉右衛門自身が時代を切り開く為に自分のなすべきこととして、これらの事業を決意し実現したところに、常人の小賢しい評価とはまた別の基準が存在するような気がする。
実際の成功と事業の先進性・重要性を別に考えての、彼自身の自己評価なのだろう。
海運事業よりも多少時期が前になるが、嘉右衛門はさまざまな事業に着手していたので、話が前後することはお許しいただきたい。
当時、ガスはもっぱらガス燈に使われており、現在のように暖房や調理に使用することは全く誰も考えていない時代だった。しかし、ガスの便利さには外国人のほうがいち早く気付いており、明治2年、横浜のドイツ領事シキウオライスは、神奈川権令(現在で言う県知事)の井関盛良にガス燈に関する事業許可の申請をした。
現在とは異なり、当時は外交官が公務の傍ら、他の事業を営むことも普通になっていた。シキウオライスも領事の仕事の他に生糸貿易で利益を上げていたが、更にガス燈事業の為にシキウオライス社を設立して事業を実行に移そうとしていた。
嘉右衛門宅を訪ねた井関権令は、このシキウオライスの話のついでに、嘉右衛門に言った。
「あなたのように、日夜を分かたず忙しく飛び歩いているお方には、ガス燈が増えて夜の街が明るくなれば、さぞかし便利でしょうな」
「まあ…街が明るくなるのは結構なことですが、このお話、手放しで喜んで許可なさることではありますまい」
「それはまた、どうしてでしょう?」
無条件でこの話に賛成してもらえるものだと思っていた嘉右衛門に苦い顔をされたので、権令は意外な面持ちで問い返した。
「上海の話を聞いたことがあります。つい最近まで、上海の街は恐ろしく道路が悪く、外国人の数が増えるにつれて、その改修を迫る声が日々大きくなっていったとのことです。しかし、清国政府のほうで全く手をつけなかった為、フランス公使が自分で道路の改修工事を引き受け、契約書を取り交わして、その工事を完成したのは数年前のことだったそうです」
嘉右衛門の話は以下の通りである。
上海の街の道路が、フランス人の手によって改修されて立派になったのは良いのだが、自然と、道路の管理の方もフランス人任せになった。道路は公のものである。その公のものを他国民の管理下に任せてしまうことにより、道路のみならず、取締りの方も、フランス側の意思によってなされることになってしまったのである。清国の国民が自分の国の道路上でフランス人の取締りを受けることになり、まさに軒を貸して母屋を取られた状態になってしまったのである。
しかし、契約書がそうなっているのだから仕方がない。これは独立国家としてはとんでもない事態で、やっと事の重大性に気付いた清国は、長期にわたって交渉を繰り返し、昨年になってやっとのことで、莫大な金を支払ってその権利を買い戻しすことになった。
これは、今回のガス燈のこととも無関係ではない。
国の公益事業を外国人の手に渡すということは、非常な考え物である。特にあのシキウオライスという領事は大変な辣腕で、彼と生糸取引をした人間は痛い目にあっているという噂もある。
ガス燈の明かりは他の燈火よりも大変に明るく、その割りに大変原価は安いということである。とすれば、これを一手に握るシキウオライス社の利益も莫大なものになる。公益事業を外国人の手に握られるばかりか、今後は不測の事態も大いに考えておく必要がある。
その不測の事態とは、いわば器物破損などの被害のことである。公道に設置されるガス燈のこと、日本人の暴漢や悪戯の為にガス燈が破壊される事態も、決して少なくはないだろう。その時には理屈っぽい外国人のことであるから、必ずや政府を相手取って損害賠償を起こすことは間違いない。横浜の将来にとっては、これは大変な問題にもなりかねないだろう。
このように分かりやすい例を引いて嘉右衛門の説明を受けた権令は、なるほど…と考えを改めることになった。
その結果、第一候補としてシキウオライスに先立って前年にガス燈設置の申請をしていた太田町の医者・青木陽斉を先願者として許可を出すことになった。事実上は青木陽斉は実業家ではないので、誰かに事業を委託すると言うことになる。ここでまた、嘉右衛門が一肌脱ぐことになった。なんだか、反対するにも結局は我が田に水を引く結果になるようなのだが、このように公益を考えて理路整然と説得されるので、どうしても嘉右衛門の出番となってしまうようだ。
このガス工事の件もなかなか一筋縄ではいかず、嘉右衛門がまたも人脈と智恵を駆使して、横浜のガス工事を一手に引き受けることになる。
普通ならば、力のある業者が施工するとなれば問題はないのだが、問題は場所が横浜という、多くの外国人居留地を抱えた特殊な地域だということだ。
外国人居留地の外は嘉右衛門が全て引き受けることで問題はない。しかし問題は居留地内である。幾らほとんどの公館の建設を一手に手がけているといっても、新しく発生する利権に関わることである。各国領事の意思や申し出を一蹴するわけにはいかない。強引にことを進めれば、今後外交問題に置いて尾を引きかねないという危うさがある。そこで、政府と関係者の練った苦肉の策とはこうだった。
まず、嘉右衛門はガス会社設立の為の筆頭世話人という肩書きである。工事許可そのものは、青木陽斉が所持している。出資は有力者数人があたる。そして、居留地外はこの新会社が引き受ける。問題は居留地内であるが、ここを居留者の投票に委ねることになった。票が過半数を超えた場合に限り、居留地内をシキウオライス社に任せようということになった。
少し姑息な手段だが、その当時の社会情勢では、これは精一杯の妥協案だろう。
さて、居留地内の票の動きをどう読むか、それにどう対処するか…明日朝一番で易を立てて運動方針を練ろうと思っていたところに、スイス領事プラーノルドから、至急面会したいとの使いがやってきた。
予想どおり、スイス領事の用事はガス燈工事のことだった。彼の言葉を借りると、こういうことだったそうである…
ガス燈工事のことも、それにまつわる競争のことも、回状によって処置している。それに関してだが…
「ここだけの話ですが、彼と私は…その…何と言うか、顔を見たり、名前を聞いただけでも吐き気を催すぐらいなのです。こんな間柄を日本では何と言うのですか?」
天才通訳と言われた横山孫一郎が同席しているのだが、さすがに要領を得ない。
嘉右衛門「犬猿の仲…と言いますが」
プラーノルド「は?日本の犬と猿は、そんなに仲が悪いのですか?それは本当の話でしょうか?」
実際、横山が何と説明したのか、それは今となっては正確には分からないが、「相性が悪い」程度で、翻訳に関しては何とか手を打ったようである。実際、プラーノルドはよほどシキウオライスが嫌いだったらしく、名前を口に出すこともしない。
プラーノルド「そうなのです。私と彼はとっても相性が悪いのです。だから、あなたが一つ私の出す条件を飲んで下さるならば、私はあなたに味方して、この競争であなたに勝たせてあげようと思います。どうですか?」
その条件とは、まあチャッカリしていると言えばチャッカリ。ガス製造の為の機械や材料一切のものをプラーノルドから購入するという条件だった。なるほど、犬猿の仲の原因も、元はと言えば利害の絡むイザコザだったのだろうが、この際、それはどうでもいい話だ。
という訳で、敵の敵は味方、嘉右衛門とプラーノルドは手を組んでシキウオライスを出し抜き、居留地内のガス燈工事も、すべて日本側が手がけることになった。
事業としてうまくいった、運がよかったという以上に、嘉右衛門がこの横浜で外国人居留地の公館建設をほとんど手がけ、主な公益事業を全て日本側の手で仕上げたという事実には、現在、表面に見えている以上に、非常に重いものがあるのではないだろうか。
もし、居留地内の具体的運営を外国人に委ねていたならば、神奈川県内に大規模な治外法権地域が今以上に存在し、ひょっとしたら、長期にわたる様々な紛争の火種になっていたかもしれない。
明治5年、東京、横浜間の鉄道開通直前のことである。大江橋から馬車道、本町通りにかけての一帯と外国人居留地全域に、ガス燈が一斉に点火された。
その範囲は日を追って広まってゆくのだが、明治三年横浜で初めて発行された日刊紙「横浜毎日新聞」には、このガス燈点火試験のことを報じた記事がある。
「不思議なこともあるものかな、太陽西に没すると思いしに、ガス燈の光たちまち四方を照らし、街を行くに日中と異ならず。まさに文明開化の奇瑞とも言うべきなり」
なお、東京の銀座、新橋間にガス燈がついたのは、明治7年のことである。これも工事は嘉右衛門の手に任されたのだった。
この横浜ガスについては、少し奇妙な後日談がある。ガス燈を設置したのはいいのだが、その料金の件が曖昧になっていたのだ。明治8年に嘉右衛門はこれを町会所に譲与してその権利金を受け取ったのだが、これが問題になって訴えられた。民事裁判のことで和解は成立したが、ここにもやはり、先駆者の歩く道に付きまとう、皮肉な運命が垣間見えるようだ。
今でも横浜の本町小学校前には、「日本最初のガス会社跡」の碑が立っており、嘉右衛門の旧宅の一つだったということである。事業家時代の嘉右衛門の本宅付近には、現在は「馬車道十番館」という明治風のレストランが建っている。
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