明治維新による日本の変貌ぶりは、世界史上の奇跡だとさえ言われる。
高島嘉右衛門は、政治の表舞台にこそ出てはいないが、時の為政者達の陰で明治維新に大きな役割を果たした、いわば陰の参謀とも言える存在だった。
「国士」という言葉がある。国を想い国を憂え、国の為に優れた働きをなす者を指して言う言葉で、「国色」「国香」とも言う。高島嘉右衛門こそは、真にこの名に相応しい存在だったのではないだろうか。
現在、東急東横線の反町付近、本覚寺と三宝寺の間の坂を上ったあたりに、高島台公園があり、すぐ傍に嘉右衛門の旧宅があって子孫の方が住んでおられる。今でもひっそりとした佇まいだが、嘉右衛門はこの高島台で半生を過ごし、易を学ぶ者の聖典ともなった「高島易断」を書き上げる。
嘉右衛門は最後まで東京へ出て歴史の表舞台に出ることを拒んだが、大正の初めに、彼の甥にあたる徳右衛門が、東京・紀尾井町に住み、ここで月に何度か易学の講義を行ったそうだ。その屋敷は、一種の高級社交サロンのような様相を呈したという。
この徳右衛門は後日、「紀尾井町の御前」と呼ばれ、里見弴の「多情仏心」のモデルとなった人物だそうだ。
嘉右衛門の態度とは全く反対に、明治維新はなおいっそう、日本の国をその渦の中へと巻き込んでゆく。
明治7年1月10日、征韓論の争いに敗れて下野した前の司法卿、江藤新平が、九州へと去る旅の途上のことである。横浜で船を待つ合間に、高島邸を尋ねてきた。
江藤新平は、肥前(佐賀)の出身である。嘉右衛門は鍋島藩との関わりが深かった為、佐賀県人とも親交があつい。
「しばらく国へ帰ろうと思いまして…まあ、半年ぐらいはお目にかかれないと思いましたので、ちょっとお顔が見たくなってお寄りしました」
江藤新平は、野に下る前は、新政府でも有能の人物とうたわれた頭脳である。西洋法典にも造詣が深く、旧法制の改革にも尽力した人物だが、大久保とはとかく意見が対立し、何かと衝突が多かったのも事実だ。
嘉右衛門は、その江藤の顔や声音、いや、その姿そのものに、何となく不吉なものを感じていた。
「さようですか…ご餞別と申しては何ですが、易など立ててみますか」
「ぜひ、お願いします」
やまと新聞付録・近世人物誌
明治20年(1887)2月20日 |
別棟の神易堂に入った嘉右衛門は、心を鎮め筮竹をさばき…出た卦に愕然とした。さいぜんから江藤の顔に現れていた凶兆が、算木の上に歴然とした姿を現したのだ。
(……これは…いけない…)
周知の通り、易というのは二度も三度も立てるものではない。「初筮には告ぐ、再三すれば穢る」といって、最初の卦が全てである。最初に卦が立たない時は、もうその時はいちおう引き下がって、新たな気持ちになってから立て直すとかしてしてみるものだ。
そういう鉄則を無視して、嘉右衛門は何度も何度も卦を立てた。設問を違う角度からしてみるなど、考えられるあらゆる手を尽くして、江藤の未来を読み取ろうとしたのだった。
しかし、30分ほども立筮を続けていた嘉右衛門は、悲痛なため息をついて、そのまま客間に戻った。
「江藤さん、今回のご出立は、見合わせられてはどうでしょうか…」
「ほう…悪い卦が出ましたか?」
顔色も変えずに問い返す江藤に、嘉右衛門は語った。
「悪いも悪い、大凶の卦です。この際ですから、言葉を飾らずに申し上げましょう。まず、旅の前途を占ったところ、『離為火』の四爻…平たく言えば、飛んで火に入る夏の虫となります」
これは、当時の政治背景を端的に暗示した卦でもあった。「離為火」というのは、二つの火が燃え盛っている状態。その四爻というのは、猪突猛進、暴走した結果、焼かれ、殺され、捨てられる、身の置き所のない卦だ。
当時の佐賀では、征韓派に愛国党、二つの主義主張が争いあい、いつ火を噴くかしれない状況。いつ暴動が発生するか分からないほどの危険な状況だった。そこへ江藤が飛び込んでいくのは、まるでガソリンを背負って火の中へ飛び込むにも等しい状況だったのだ。
嘉右衛門は、状況と卦の意味するところを告げて、何時になく強く、江藤を引きとめた。しかし江藤の言葉は次のようなものだった。
「確かにそのような危険はありましょう。だからこそ、私が行かなければならないのです。今の政府を転覆させ、西郷閣下を押し立てて第二の新政府を作らなければ、わが国の将来はありません。まだその期が熟していない為、若い者達の暴発を抑える為に私が行くのです」
「お気持ちは分かります。しかし、それはあなたの力では無理なのです。世の中の動きには、自然の流れ、時の勢いというものがあります。この卦は、それに逆らうことの愚かしさを、あらわしています。あなたの一人のお力ではその流れを止めることはできないのです」
「いや、私でなければ出来ますまい。国許からも毎日のように催促があって、大勢のものが私を待っています。私が今、乗り出せば…」
いくら占いと社会状況を含め、口を酸っぱくして引き止めても、江藤は頑として気持ちを翻さない。嘉右衛門は終に、言わざるを得なくなった。誰しも聞きたくはないだろう、昔のあまりに悲惨な結末を、である。
「そこまで仰るのならば、もう一つ、あなたの近い将来に対する占断を、はっきりと申し上げましょう。『沢天夬』(たくてんかい)の上爻です。この意味を、改めてご説明しなければなりますまいか…」
この連載の、第三回を見直してみてほしい。嘉右衛門が昔、伝馬町の牢に入れられた時、この卦が出たことがあった。その時にこの卦を得た男は、翌日、打ち首獄門になったのだ。
「ほほう…私も打ち首獄門になると仰るのですか。その打ち首の刑は、私自身が司法卿であった当時作った新刑法では、廃止になりましたよ。更に、江戸時代から行われた旧法のままでも、士分=今の士族の人間は、獄門の刑にはならないものと、決まっているのですよ」
更に江藤と嘉右衛門はやりあったのだが、江藤の意思は固かった。というよりも、嘉右衛門の占断を聞き入れることのできない大きな何かに、取り込まれていたのかもしれない。
「もし、仮にそのようなことがあっても、それはどうにもならない運命ではありますまいか。武士道とは死ぬこととみつけたり、という葉隠れの教えでも思い出しましょうか。確か、佐久間象山先生も、京都へ上る時にこの卦を得、三条木屋町で暗殺されたそうですな。ひきとめられたのを『男児たるもの、国家の為に死ぬなら命は惜しくない』と言って出立されたそうです。しかし、この卦には『往く所有るに利し』とあったと思いますが」
易の書をお持ちの方は、沢天夬の卦で嘉右衛門の解釈と江藤の解釈を見比べて、よく読んでみて欲しい。この卦は独裁者が排除されることによって、一般庶民が利する、という意味である。。。
ここに至って、嘉右衛門はもう、言葉が出なくなってしまった。江藤は稀代の才人ではあるが、自らの才を恃むことが強く、世の中のことは自分の考えどおりになせばなる、と思っているところがある。こういう傾向はいまさら簡単に変りはしないだろう…。
嘉右衛門はもう、他の角度から占ってみた結果には触れず、家人にボルドーワインを運ばせた。さぞ苦い酒であっただろう…。
その後、江藤は旧士族たちの勢いをおさえきれず、ついに「佐賀の乱」を起こす。
2月27日のことである。江藤は鹿児島へ逃走し、西郷隆盛の決起を懇請するが、西郷は同調しなかった。仕方なく土佐に入り、援助を求めるが、民権運動の同志たちも、すべて首を横に振り続けた。
江藤は3月29日に土佐甲浦で捕らえられ、佐賀に送られる。
江藤はこの逮捕にあたり、国事犯として東京へ送られると信じていたのだが、大久保はこれを許さず、4月13日に死刑を宣告、即日の処刑となった。
しかも士族を除籍された上で旧法を適用しての処刑だった為、打ち首獄門、獄門台に晒されることになった。これは、各地の旧士族達の蜂起を恐れた大久保の、いわば見せしめの処置だが、司法卿として獄門の刑を廃止した江藤の末路は、なんとも皮肉なことになってしまった。
この知らせを聞いた嘉右衛門は、涙を浮かべて語ったという。
「彼は西欧法律の理には精通していた。ただ、天運の理のいかなるものかを、知らなかったのだ…」
明治九年秋、嘉右衛門は実業界からの引退を表明する。数え年で45歳である。人生50年という感覚では決して若くはないかもしれないが、老い込む年齢ではない。83歳の天寿を全うし、自分の運命をも確実に予知していた彼の心に何が兆していたかは、他の人間の知るよしもない。
この引退を決意した時、嘉右衛門は「天山遁」の上爻と、「水風井」の上爻という、二つの啓示を受けたそうだ。
東洋には高士、隠士、という、いわば人生のスタイルのようなものがある。現実世界で一定の役割を果たした後は、後人に後を託し、悠々自適するというスタイルである。人それぞれに人生のスタイルはあるが、嘉右衛門ほどの波乱に満ちた、それこそ九天九地の半生を送った後は、「功成り名遂げて退くは天の道なり」とでも言うこところだろうか。
もちろん、隠遁しても教えを乞う人の足が途絶えることはなかった。
「水風井(すいふうせい)」という卦は、泉がコンコンと湧き出て尽きるところを知らないが、その水の恵みを求めてやってくる人が多い為、蓋をする暇もない、という意味である。自分から水を運ぶのではなく、求める人が向こうからやってくる、という意味でもある。
この明治9年は西南戦争のあった年でもある。西郷隆盛も城山で果て、木戸孝允もこの世を去る。
更に明治11年には大久保利通が暗殺され、明治維新の立役者達は、その役割を終えたか志半ばで果てたかは知らず、その生涯を閉じるのである。
順序はいささか前後するが、明治初期に顕著な功績を挙げた人物の一人に、伊藤博文がある。伊藤は西郷従道、大隈重信、山本有明などと共に、大久保利通の意思を受け継ぎ、新政府の基礎を樹立した功労者の一人である。
維新政府の詳細、また日清、日露戦争などについては、他に資料が沢山あるので駆け足で飛ばす。
しかし、日清戦争について嘉右衛門が得た卦については、触れておこう。
「水天需」(すいてんじゅ)の三爻…
需は孚(まこと)あり、光亮(とお)る。貞吉。大川を渉るに利(よろ)し。泥に需(ま)つ。寇(あだ)の至るを致す。
これを、嘉右衛門の解釈を元に易しく言ってみれば、隠忍自重、とにかく待つが吉、ということである。
需とは水気が天上にあり、黒雲が発生している状態である。雲がある時は必ず雨が降るのだから、待っていれば功成る。これを戦争として見ると、下の内卦を日本と見る。三本の陽が剛健を持って進もうとするが、清国は水の危機を設けてわが国を陥れようとしている。敵の策略に乗らず、時期の至るのを待って開戦すべきである。「寇の至るを致す」とは、今は敵に有利な状況が備わっているということだ。
今は6月で既に危険は迫っているが、「泥に需つ」の言葉どおり、進退の自由を欠いて動きが取れない。
これより40日、要地に陣を構えたまま自重して動かず、8月上旬を持って開戦に踏み切れば、海軍は堂々たる勝利を収めるだろう。
これは日本側から見た解釈であり、清国側からこれを見るには、全体を転倒させて見る。
そうすると「天水訟」となるわけだが、これはいわゆる「水天需」の逆運で、警謀策略は全て裏目に出て、望みを達することができない。本来は隠忍自重して敵を避けなければならないところだが、おそらく日本を見くびって強気の態度で事の解決をはかるだろう。その結果、陸でも海でも連戦連敗となり、海の藻屑となるであろう。
ただし、この戦争じたいの結末は、「水天需」の上六と考えられる。
「招かざるの客三人来る。これを殺すれば終(つい)に吉」とあるのは、おそらく露英米の三国の干渉と考えられる。この際はその勧告を入れ、一歩を譲って早期の戦争終結に踏み切るべきである。
原文はもっともっと格調高く3倍ぐらいの長さだが、嘉右衛門はこれを、高島台を訪れた伊藤首相に伝え、6月28日の国民新聞、報知新聞に発表した。
結果として、戦争の勝利は日数までほとんどこの通りになった。
しかし、三国の干渉というのは、露独仏の三国であり、嘉右衛門の予想と少し違っていた。
この後、広島に大本営が設置され、総理大臣の伊藤博文、海軍大臣の西郷従道も供奉しているが、嘉右衛門はこれに同行するよう、非公式に誘われた。
しかし、固辞してこれを受けなかった。事実上は弟の徳右衛門を通じて戦況その他についての占断を大本営に伝えている。大本営に詰めていたならば、日本版諸葛孔明そのものだが、嘉右衛門はあえて戦況に身を晒さない方法で、彼なりの勤めを果たそうとした。
もちろん、戦況はつぶさに伝えられてもいるし、数々の占断による助言も、惜しみなく与えている。これも、大本営から距離を置くことで、大局を誤らない為の一つの手段だったのかもしれないし、また彼なりの別の考えがあったのかもしれない。
この後も、数々の占断によって嘉右衛門は伊藤博文に多くの影響を及ぼし、日清戦争における彼の果たした役割は、決して小さなものではない。
そして日清戦争は勝利を収めるのだが、三国干渉が事実となり、日本は難しい立場に追い込まれてゆく。
陸奥宗光の外交工作も奏をなさず、三国の申し入れを受諾せざるを得なくなった日本は、更に微妙な立場へと追い込まれてゆくことになる。
ロシアは旅順、大連を、フランスは広州湾を、ドイツは膠州湾を租借し、清国分割が現実のものとなりはじめた。特に日本人を怒らせたのは、旅順、大連が事実上、ロシアのものとなったことである。
後日の日露戦争への道は、この時に端を発したものと考えられる。
日露戦争でも、嘉右衛門はその易聖の本領を発揮して、数多くの重要な占断を下している。いろんな秘話が伝えられているが、ここでは、日本海海戦に話のスポットを当ててみたい。
日本海海戦には、何人かの人物が大きな役割を果たしている。一人は、言わずと知れた海軍大将・東郷平八郎。
もう一人は、秋山真之少佐。彼は海軍最高の頭脳と謳われたが、狂人と紙一重という感じの人物だったということである。
そのエピソードの一端として、秋山と大本教との係わりが伝えられている。舞鶴で水雷戦隊の司令官をしていた秋山少将は、京都綾部の大本教本部を訪ね、出口王仁三郎とたちまち、意気投合してしまった。
大本教と出口王仁三郎については改めて語る必要もないが、知識のない方は自分で検索して、背景と実態を調べてみて欲しい。
意気投合しただけならば、天才型の人の気紛れで済ませられるが、突然彼は、大きな妄想に取り憑かれてしまった。
「大正6年6月26日、東京を中心とする関東地方に、大地震が突発する」
実際はこの予言は大本教とはかかわりは無く、秋山の妄想だったらしい。しかし、大本教もたびたび地震の予言はしているし、終末思想と新興宗教とは密接な関係があるので、秋山一人の妄想だったとは言え、大本教との係わりがこの言動を呼び起こしたものだろうと、筆者は想像する。また、大本教に影響されやすい傾向が、秋山自身の中にあったのだろう。
秋山は政府要人宅を次々と来訪して、熱心に地震突発の予言をして回ったが、予言が大外れに終わってしまったので、今度は途端に、大本教を否定する側に回ってしまった。
これらの奇矯な行動を指して嘉右衛門は、こう言っている。
「秋山さんは、確かに稀に見る天才です。しかし天才というものは、狂人と紙一重というような性格もあり、私も秋山さんにあってそのことを見届けました。おそらく、秋山さんは晩年道をあやまるでしょう。しかしそれは、日本の将来には何の関係もありません。海戦に於いてはその天才を十分に発揮させるでしょう」
明治38年5月中旬、ロシアのバルチック艦隊が。刻々と日本近海に迫りつつあった。
日本海海戦についてはあまりにも著名で、資料も沢山あるので、詳しくは以下のサイトなどを参考にして欲しい。ここではあくまでも、歴史の表舞台に出ることのない、高島嘉右衛門がかかわった、裏の歴史について筆を進めてゆきたい。
http://www.mars.dti.ne.jp/~yotumoto/nisin-nitiro/nitiro.html
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6
5月14日に、バルチック艦隊が、仏領安南(現在のベトナム中部)ヴァンフォン湾に集結し、湾を去ったという知らせが東郷艦隊の元に届いたのは、5月18日のこと。
その目的地は分かっている。言わずと知れたウラジオストック。目指す港はそれ以外にはあり得ない。ただ、問題なのはそのコースだった。
位置を見てもらえば分かる通り、ウラジオストックは日本海のロシア側ほぼ真ん中に位置している。理論的には三つのコースが考えられた。
一つは、太平洋からぐるりと日本全土を迂回して、宗谷海峡から日本海へ入るコース。しかしこのコースは、あまりに距離が伸び過ぎることと、濃霧の発生する地域の為、大艦隊の巡航には悪条件が重なり、まずあり得ないと思われた。
もう一つは、同じく太平洋から迂回して津軽海峡から日本海へ入るコース。
残る一つは、太平洋には回らず、対馬海峡から直接日本海に入って、ウラジオストックへ直進するコースだった。
このどちらも、可能性としては十分にありえた。対馬海峡直進コースが一番距離は短い。津軽海峡迂回コースはやや全体の距離は長いが、日本海に入ってからウラジオストックまでの距離は短く、十分の可能性があると考えられた。
この時、連合艦隊の主力は朝鮮鎮海湾にあり、近くの対馬浅茅湾、竹敷まで水雷艦隊が進出していた。できれば、沖ノ島付近で決戦を挑もうとしていたのだが、この時、首脳陣の頭の中は、乱れに乱れていた。
鎮海湾に主力を集結させて待機していたということは、敵の対馬海峡通過を前提としていたからだ。
しかし、待てど暮らせど敵の姿が見えない。ヴァン・フォン湾出航後、10日経っても艦隊が姿を現さないのは、対馬海峡コースでなく、津軽海峡コースを選んだ為ではないか、という声が強まり始めた。
万が一、津軽海峡に敵が姿を現したという知らせによって急遽出航したとしても、ウラジオストック入港を食い止められるかどうかは、心もとない。早く津軽海峡西口まで進出して、そこで敵を待ち受けるべきではないか、という意見が強まりはじめた。
しかし、その方策を取ると、もし敵が対馬海峡に現れた場合には、完全に戦機を失してしまう。妥協案として、艦隊を隠岐の島近くの海域へ進め、両方の可能性に備えるべきだという案も飛び出した。
日本海軍の至宝と言われた秋山参謀にしても、この時点では果てしない緊張の連続の為、心身ともに極限状態に近かったらしい。
その一例として、東郷長官の許可も得ずに、東京の大本営海軍部にこういう電報を送ったりした。
「相当の時機まで敵艦を見ない時は、艦隊は随時に移動する」
大本営ではこれを、東郷長官の決意通告だと受け取ってしまったのだが、緊急会議の結果、
「なお鎮海湾に留まることを得策とする」という返電を送った。
それと入れ違いに、
「26日正午までに当方面に敵影を見ざれ場、当隊は北海道に向かって移動する」
という、明らかに焦慮を感じさせる電報が来た。これが5月25日のことである。
この夜、伊藤博文は、高島台に嘉右衛門を訪ねた。
大本営の幕僚から耳にした連合艦隊の混乱ぶりが、心配でたまらなかったからだ。
伊藤が何よりも心配していたのは、国力の低下だった。疲弊しきった兵力では、本土の陸軍の予備兵力は幾らも残されておらず、財政面から言っても、国庫は破産寸前。
これでもし、バルチック艦隊の主力がウラジオストックに逃げ込むようなことがあれば、相次ぐ敗北に意気消沈しているロシアも、息を吹き返す。その上、日本の艦隊もウラジオストック周辺に釘付けになり、多方面への警戒力が低下する。戦争の長期化は避けられなくなり、形勢逆転の可能性が強くなってくる。
「だいぶ、ご心配のようですな。しかし、ここ数日の辛抱ですよ。」
博文の顔を見るなり、嘉右衛門は励ますように言った。そして、電報の一件を聞いた。
「26日に出立?…それは…東郷長官のご決断でしょうか……?」
「細かな点までは分からぬが」
「私は前に申し上げました。東郷長官には大ナタのような重みがあり、秋山参謀には剃刀のような鋭さがあると。もちろん、絶妙の組み合わせではありますが、こういう局面に至っては、剃刀の歯は折れたり刃こぼれします。おそらくそれは、秋山さんが不眠と疲労のあまり、神経を乱されてのことではないでしょうか」
「じつは、わしもそうではないか、と思っているのだが」
「東郷長官は、鎮海湾から一歩も動かれますまい。戦機はいま、ぎりぎりのところまで熟しております。遅くてもあと3日、おそらく27日いっぱいには敵の動きもはっきりしましょう。そうなれば後は、大ナタで蛇を両断するような動きになりましょう。
私が戦況を占ったところでは、『雷水解』の上爻変でこざいます」
「うむ…公用いて隼を高ヨウ(こうよう)の上に射る。之を獲て利(よろ)しからざる无(な)し…とあったな。前に東郷が参内した時の上奏では、『必ず敵艦隊を撃滅し』と一言があったので、大言壮語を好まない東郷としては大変な自信だと、話を聞いた時にはわしも心強く思ったものだが」
「ご安心なさいませ。敵艦隊の動きは、『火雷噬ゴウ』の初爻と出ました。足かせをかけられた状態で、思うように歩けない…そのような象でございますから、対馬海峡にかかるのも、予定よりも遅れていると見ました」
「なるほど…艦隊主力はともかくとして、それに伴うものの足手まといの現象が起こっていると言うのだな」
「おそらく、さようでございましょう。くれぐれも申し上げますが、あと二日、現在位置から動かれませぬように、閣下からもしかるべきご配慮をお願いしとう存じます」
結局、連合艦隊は鎮海湾を離れなかった。
事実、嘉右衛門が占った、全くその通りだったのだ。日本首脳陣は、ロシア艦隊の航行速度を、過大に見積もっていた。最新鋭性能を備えた主艦の速度は把握していたが、それに伴う石炭船などの速度が遅く、見積もりよりもはるかに日数がかかっていたのだ。
5月27日午前4時45分------哨戒船、信濃丸はついに敵艦隊を発見した。無線はまもなく旗艦「三笠」に伝わり、小躍りする秋山参謀は自分の部屋に駆け戻り、大本営への電文を一気に書き上げた。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハタダチニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日(ホンヒ)天気晴朗ナレドモ波高シ」
後世に残る名文だったが、その陰にこういう秘話があったとは、話は聞いてみなければ分からないものである。なお、本日を「ホンヒ」と読むのは、海軍独特の語法である。
日本海海戦での連合艦隊の快勝ぶりは名高い。改めて書くまでもないだろう。二日間にわたる海戦で、ロシア軍は19隻撃沈、5隻が捕獲され、6隻が中立国に逃込んで武装解除され、ウラジオストックへ逃込んだものは、ヨット改造の小型巡洋艦一隻と駆逐艦二隻、運送船一隻だけだった。
それに引き換え、日本側の損害は水雷艇三隻のみ。
当時の日本の力からすると、この大勝はまさに奇跡としか言いようがなかったらしいが、それはさまざまな条件が重なったものではないだろうか。
待つ日数が長かった為、長期の航海を続けて訓練も休息の暇もなかったロシア艦隊に比べ、日本軍は遥かに士気が高まっていた。また、当時の日本側の砲弾は、技術向上が著しく、ロシアの10倍と言われる威力があったそうだ。
バルチック艦隊の指揮官・ロジェストウェンスキーの指揮にも誤りがあったと伝えられるのに対し、東郷元帥の指揮ぶりは、ほとんど完璧であったと言われる。
秋山参謀も、錯乱気味なことばかりしていたわけではなく、見事な作戦を立てていた。神がかりなところがあった為か、敵艦隊の隊形を始終夢に見て、その隊形を相手に、三日半にわたる七段構えの戦法を立案していたと言う。
実際には七段は必要なく、一日半・三段目の攻撃で大勢が決まってしまったのだが…。
明治39年ごろから嘉右衛門は腰を痛め、ほとんど寝たきりの状態となって高島台の自宅から一歩も外出できなくなった。この時75歳だが、幾ら強健な体質でも、若い頃の激しい労働がたたったのかもしれない。
しかし、易学に対する情熱だけは燃え盛っていた。病室の天井に、六十四卦の図を貼り付け、易の話をする時には長い指し棒でその図を示しながら陰陽の原理を説いて、時の経つのを忘れた。
伊藤博文との仲は、姻戚関係になるほど深まっていた。
博文の長男博邦は、嘉右衛門の長女・たま子と結婚して、十男三女という子沢山である。
嘉右衛門は若い頃から常々「大法螺を吹けぬようなやつには娘はやらぬ」と豪語していたそうだ。この博邦は宮内省に入ったそうだが、もしも父親の血を引いて野心家の一面があるとすれば、もし別の道を歩いていたら…という気もする。
伊藤博文は、明治42年10月、69歳の老躯に鞭打って、満州への旅に出た。
ロシアの蔵相ココフツェフとハルピンで会見し、満州問題について討議するためである。
慌しい日程の中、博文は嘉右衛門を訪れた。10月12日、ちょうど池上本門寺のお会式の日のことである。
これが、二人の別れとなった。
「……閣下、急病になってはいただけませんか」
嘉右衛門は、病間に博文を迎えるや否や、突飛なことを言い出した。
姻戚というよりも、多くの激流の中で形こそ違え、共に戦ってきた40年の深い仲、兄弟のような間柄である。それでも嘉右衛門は、伊藤に対しては礼儀をわきまえた丁寧な接し方をしていたのだが、それが急に、思いがけないことを言い出した。
「病気と言われても、私はどこも悪くはないが…仮病を使ったところで、すぐに見破られますよ」
「しかし、閣下もお年です。急の病になられても、決して不思議ではありません。例えば、私のような腰の病とおっしゃるならば、現在の医学では真偽の判断はできませぬ」
はて…、と、さすがに博文も、首を傾げた。
「あなたがそうまで仰るということは……私の旅の前途を占われたのでしょうな」
「はい、大変な凶兆でございます。おそらく閣下は、この旅から無事にお帰りになることはできますまい。閣下は文字どおり、国家の柱石、これからもまだまだ、天下のお役に立っていただかねばならぬ、大切なお体です。参内も済ませられ、ロシア側とのお約束もあり、めったなことでは変更できぬご予定であることは、重々承知の上でございます。その上で、どうしてもお引きとめするのです。高島嘉右衛門、こればかりは一生一度、最後のお願いだと思って、お聞き届け下さい」
「それで…卦は?」
「『艮為山』の三爻変…」
「なるほどな…其の背に艮(とど)まりてその身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず、とあったな…これは艮為山の爻辞だったが、ハルピンと言えばロシアの勢力範囲。そこまで足を踏み入れても、目指す相手には会えないということなのだろうか…」
「さようでございます。してその三爻変は『其の限に艮まる。其のインを列(さ)く。あやうく心を薫す』とあります。
私の著作にも、『この爻、労苦して幸福なし。止塞して開きがたし。自ら事を設け、意のごとくならず、心痛のあまり背筋凝結して卒倒するの象あり。門前にて怪我する象あり。党類の首長、其の心堅固にして手段を尽し、半途にして腰折る意あり』と解説しています。このような卦ですから、閣下がここでご出発を断念なさっても、日本の将来の為に何の悪影響もございません。むしろ、いったん留まられて、次の機会をお待ちになるべきだと存知ます。」
「易の力に関する限り、あなたは『占神に入る』とさえ言われるほどの人だ。その判断は信用いたしましょう。しかし、今度の満州旅行だけは、どう言われてもやめるわけにはいきません」
「閣下、お願いでございます!」
「先年、私は北海道に行った時、あなたの石狩の牧場に泊まりましたな。その時に作った詩ですが
『蹇蹇匪躬、なんぞ帰るを思わん
満天の風露、征衣を湿す
秋宵石狩、山頭の夢
尚お黒竜江上に向かって飛ぶ』
という詩です。
ほんのちょっと字を置き換えると、これは、今の私の心境をうたったものです。
お国の為、陛下の為ならば、この身はどうなってもかまわない。ただその時々に、全力を尽くすことが、臣たる者の道だというのが、『易経』の教えではありませんかな?」
「…………」
「私の友人達は、何人と数え切れないくらい、この御維新の戦乱の中で命を落としました。その中には、もし彼が今でも生きていれば、この私などは陰が薄くなっていたであろう、と思われるほどの人物も少なくないのです。私にしても、往時を振り返ると、今まで生き延びてこられたのが、自分でも不思議でならないのです」
「……………」
「経書にも、人間、還暦を過ぎ、あまり苦痛のない病で息を引き取れれば天寿を全うしたといえる…とあります。ただ、二つの例外があり、武人が戦場に屍をさらすか、政治家が信念を貫こうとして暗殺されることだとか。
私はもはや六十九歳、余命はそう長くはありますまい。寿命のあるうちに、満州の戦跡を、ひとつ自分の目で確かめたい。それが、最後の願いなのです。
私の残した仕事は、後に続く者の誰かがやりとげるでしょう。吉田松陰先生が刃の露と消えても、門下生がその志を継いだように…私が暗殺されても、その死は決して無駄にはなるまいと思いますが」
別れの時は迫ってきた。
「それではこれで…」
「くれぐれも、お体にご注意を…」
「あなたも、どうぞ、お大事に…」
「閣下、ただ…ただ…このご旅行中、『艮』とか『山』とか…この字のつく名前の人間は、お傍へ近づけなさらないで下さい、どうぞそれだけは…」
簡単な挨拶を済まして病間を後にした博文は、玄関へ出た。
その時、急に電灯が消えた。停電だ。
ランプだ、蝋燭だ、という騒ぎの中で、博文は佇んでいたが、どこからか、風に乗って流れて来る音は、熱狂的な法華の太鼓の音…。池上本門寺お会式の余波だ。
「法華の太鼓に送られて…か…」
それが、高島邸に残した、伊藤博文の最後の言葉だった。
伊藤博文公経歴 |
10月14日に大磯を出発した博文は、18に大連到着、20日に旅順の戦跡を訪れ、25日に長春着、夜行列車に乗り換えて、26日午前9時にハルピン到着。二日前から到着していたココフチェフは、伊藤の乗るサロン車に入って、最初の挨拶をした。その時の博文の印象を、ココフチェフは後日こう語っている。
「伊藤公の容貌は、非常に強い印象を与えた。身長は低かったが、頭は非常に大きく、眼光は私を射すくめるようだった。顔は柔和で、好意が満面にあふれていて、期せずして人をひきつける魅力があった」
二人は、後刻の会談の予定を打ち合わせ、歓迎式に移った。揃ってプラットフォームに降り立ち、ロシアの守備隊を閲兵した。各国領事団の列に近づいて握手をかわし、日本人歓迎者のほうへ向かって数歩進んだ時である。
突然、参列者の後方から、洋服断髪の一人の男が踊り出た。警護の者がハッとした時にはすでに、六発の銃声が鳴り響いていた。
博文はよろめき、随員の一人に支えられながら
「三発あたった…あの男の名前は……」
と、微かな声でつぶやいた。人々に担がれて列車の中に戻り、医師の応急手当てを受けたが、二発は肋間に入って盲管銃創となり、一発は腹に当たって腹筋に残ったが、どの一発でも致命傷という傷だった。
「何という男だ…」
気付のブランデーをすすりながら、博文はうわごとのように訪ねた。
「名前はまだ分かりません」
「馬鹿なやつじゃ…」
それが最後の言葉となった。30分ほど後、10時数分前には、心臓の鼓動も止まった。
犯人は、七連発拳銃の六発を発射したが、博文はそのうち三発を浴びた。残りの三発は、ハルピン総領事の川上ほか秘書官などに当たったが、どれも軽傷に留まった。
この犯人の名前は、韓国人安重根という名で、ロシアに帰化した排日家、崔歳亨の部下だった。当然、ロシアの警官に取り抑えられたが、その後日本側に引き渡され、翌年死刑になっている。
伊藤博文の棺は大連で軍艦「秋津洲」に移され、一路横須賀へと向かった。そして列車に移され、新橋停車場へと向かったが、嘉右衛門もこの日は家人に助けられて不自由な身を起こし、高島台から眼下を通過する汽車を見送り、最後の別れを告げた。
11月4日の日比谷公園での国葬の時には、風はなかったが暗雲が低く垂れこめ、葬儀が終わる頃には冷雨蕭々として天もこの英雄の死を悼むのかと、人々にため息をつかせた。
長春行きの列車の中でしたため、満鉄総裁中村是公に示した漢詩は、絶筆とされている。
「万里の平原、南満州
風光闊遠、一天の秋
当年の戦跡、余憤を留む
更に行人をして暗愁を牽かしむ」
嘉右衛門はその後40日余り、固く門を閉ざして誰にも会わなかった。しかし、彼が博文に対して下した最後の占断の話は、いつの間にか市井に伝わっていた。それはおそらく、博文自身が随員に
「高島の占断ではこう出たのだが…」というような話をした為だろうと思われる。その随員達も、子供の頃には四書五経の素読をした者が多いだろうし、「艮為山の三爻」と聞いただけで、どういう意味か分かる者が多かったのだろう。
この後、嘉右衛門は、責任のある占断はしなくなった。易の講義や自伝の口述は続けていたが、すでに齢八十を超えている。
彼は死の直前まで、「虚空無限」という言葉をつぶやき続けた。
これは、若い頃に鉱山事業にかかわっていた時に出会った、占い師の言葉である。釜石の地で、自分の死期を悟り飄然とどこかへ姿を消した、白雲道人という仙人のような老人の書き残した言葉である。
この「虚空無限」の本当の意味は分からない。いや、その人が悟った範囲のものが今現在の真実であり、とても言葉であっさりと説明したり、分かったりするようなことではないのだろう。
嘉右衛門も、死の数日前に、こういう言葉を残している。
「ことごとく易を信ずれば、易なきにしかず」
大正3年、10月17日未明、嘉右衛門は枯れた大樹のように最後の息を引き取った。伊藤博文の業績を知る人は多いが、その陰で高島嘉右衛門の果たした役割は、ただ知る人ぞ知る、である。
晩年の高島嘉右衛門 | 筆者所持の高島易断合本 |
以上、ざっと高島嘉右衛門の生涯をさらえてきたが、高島嘉右衛門伝はあまりに波乱万丈で、とてもこんなところでは書ききれない。
8回という連載だったが、このサイトで紹介したのは、嘉右衛門の伝記のほんの一部である。若い頃の鉱山事業の話など、カットしたことを惜しまれる部分もあるので、興味のある方は、ぜひ追求してみて欲しい。しかし伝記も、「高島易断」同様、なかなか入手しづらいので、あえて幾つかのエピソードに絞って紹介しました。
また、易者世界のブランドの問題だが、高島嘉右衛門の門下で、高島姓を許された者はいない。嘉右衛門の易者としての名は高島呑象。
高島嘉右衛門の弟、徳右衛門の一子二代目徳右衛門が二代目呑象を名乗り、その血を引く高島弘光氏が正式に三代目呑象を名乗っておられます。そこまでは確実だが、その後の直系だとか○代目だとかの争いには、筆者はまるっきり興味がない。このあたりの事情は、検索してもらえば分かることだが、筆者はあんまりそういう生臭い争いに関わっている人に、易を立てて見てもらいたいとは思わない。
ただ、易そのものと易経と、それに心血を注いだ高島嘉右衛門、その結実である「高島易断」が易者の商売の道具でなく、きちんと正当に評価されることを願うのみです。
高島嘉右衛門伝・完結
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