今回は畳の持つ性質と、その敷き方といった話です。
別項の黄金比、白銀比の話で、日本で親しまれているものの一つとして、六畳間を取り上げました。
六畳間というのは、比率が4:3で、黄金比ではなく日本に多い白銀比のひとつです。
風水でどこまでが吉の比率かというと、正方形〜白銀比〜黄金比までで、たぶんこの真ん中の白銀比ぐらいが、最も設計もしやすく安定感のある比率でしょう。
白銀比よりも四角に近づくほど、四角四面で動きが取れない、安定感はあるが堅苦しくて動きが少ないといった性質を持っているわけです。当然ながら運勢面でも、そのような傾向が出てきます。
反対に黄金比に近づくほど、安定感よりも動きとか発展性が出てくるわけです。おおまかな話ですが、西洋と東洋、狩猟生活と農耕生活という風に考えてみると面白いかもしれません。
筆者もたまに古い日本家屋の鑑定を依頼されたりすると、そうか、和室ばっかりの家の構造ってそうだったなあ…と、子供の頃によくひと夏を過ごした母の実家を思い出します。
大宰府天満宮のすぐ脇にあったその家で夏を過ごしていたのは小学生時代なので、あまり細かい部分は覚えていませんが、今では少なくなった田舎の旧家でした。
普段の生活に使う幾部屋かの他に、奥のほうに3部屋ぐらい座敷がつながっていて、そこは冠婚葬祭で人が集まる時にしか使いません。入って遊んでいると叱られたし、入ったところで何も無かったので、特に冒険をしにこっそり忍び入る、なんてこともありませんでしたが、何も家具が無くて、たまに畳を上げたり敷き変えたりしていたのは覚えています。
現在は和室のある家が少なくなり、あってもひと間だけとか、それも独自サイズなのでいちいち畳屋さんがサイズを測って畳を誂えていますが、昔は畳というのは定期的に表替えもしますし、ことあるごとに敷き変えていました。
畳というのは元々は汎用品で、現代風に言えばユニットです。必要に応じて上げて床下の掃除をしたり並べ方を変えればよいので、その並べ変えというのが、祝儀・不祝儀ごとに行われていたわけです。
畳の並べ変えというのも、今となっては懐かしい習慣ですが、まず畳というものの性質から見てゆきましょう。
畳の表には「イグサ」を使います。このイグサというのは一種独特の芳香があり、薬効もあるところから薬草としても用いられ、日本家屋には無くてはならないものでした。
新しい青畳の清々しい香りは何とも言えない魅力のあるものですが、いつも気持ちよく使おうと思えば、3〜5年で表替えをしなければなりません。一回だけなら裏返して使用できますが、張替えの手間と費用は発生します。それに現在のように個人の所有物や家具が多い暮らしかたでは、定期的に畳替えの出来る家は少ないでしょう。
畳の部屋のメリットにはいろんなものがあります。寒い季節でない限り、家の中で裸足で生活する人は少なくないと思いますが、畳を素足で踏むのは、足の裏の感覚を蘇らせる一種の健康法でもあります。余裕があれば是非ひと間だけでも、畳の部屋をしつらえたいものです。
風水では、畳の部屋は家の中で一番位が高いので、北西に床の間付きの和室を作り、仏間や神棚にするのがお薦めです。仏間にしない場合には一家の主の寝室にします。これは玄関とか水場の方位とか鬼門がどうだ、と考えるのと同じぐらい大切なことです。
否、実際問題として、北西がきちんと整った家は割合に他の部分もちゃんとしていることが多いので、その家がどのレベルの相を持っているかは、北西で分かると言っても過言ではないぐらいです。
こんなところでネタバレしてしまうのもどうかとは思いますが、畳=和室=北西というつながりは、どうしても切り離せないものです。
北西がちゃんとしているというのは、北東鬼門ももちろんちゃんとしていて、玄関も水場もちゃんとしていて、全体に大きな欠陥が無く、その結果、北西も吉相になっているということです。ある意味では、その家の地力とか底力、神仏の守りがどれぐらいあるかが分かる部位なので、つまり、全体のレベルを見るのにいろんな意味でのバロメーターとなるものです。逆に、こう書いたからと言って、北西ばっかり吉相にしようとしても、なかなかそうはいきません。
何かのテストで、「これは出来ますか?」という場合には、当然ながらそのことだけを尋ねているわけではなく、そのレベルに達しているかどうかを聞いているので、それと似たようなものです。
畳の敷き方ということを述べましたが、古い家相学の本を見ると、必ずと言っていいほど、「死に間はいけない」というようなことが書いてあります。
これは八畳・八畳の続き間、或いは六畳(押入れ付き)・六畳(押入れ付き)の続き間だと四間×二間の「死に」になるので、語呂合わせっぽいものなのでしょう。しかし日本古来の言い伝えというものは不思議なもので、みんながひどく気にしているかと思えば、暦の仏滅のように完全な迷信だったり、逆に単なる語呂合わせかと思っていたら実際に笑えない事態になったりと、不思議なことがあります。
この「死に間」に関しては予想外なことも発生する場合がままあるようなので、出来るだけ続き部屋は、同じ広さ、同じ造りにならないように工夫したほうが良いと思っています。
筆者に言わせれば、ふた間も三間もただ同じ間取りの部屋を並べるというのは、間仕切りも曖昧で使いづらい上に、強度の点でも不安があるわけです。そういう家を建ててしまうというのは、他の面でも何かと足りない面があるのではないかと思います。
母の実家にしても、三部屋も続き部屋を使わずに確保して、常に畳は綺麗にしておくような家ですから、それなりの家ではあったのですが、内実はあまり良くなくて結局は没落してしまったようです。
今なら、使わない部屋が多いのは凶相だ、と分かりますが、子供心にも何となく、こんなに部屋を空けておかないでもっと有効に使えばいいのになあ、と思ってはいました。何せ、夏休みに長期滞在で行くと、お盆の飾りばっかりやたらに立派でいたずらも出来ないような雰囲気なので、それなりの習慣を守って暮らしていた家だとは思いますが、それしか覚えていないというのも問題なような…。
子供達は別棟の納屋みたいな離れの屋根裏部屋を自分の部屋にしていたので、それはそれで楽しかったのですが、考えてみるとそれもおかしなことかもしれません。
昔ながらの日本家屋にお住まいの方は、一定の言い慣わされた知識はお持ちなのだと思いますが、畳の敷き方の決まりというのは、それなりに理由のあることです。
畳の敷き方の最大の決まりは、畳の目に沿った使い方をする、ということです。
全く和室の生活を知らない若い方に、畳の部屋の掃除をさせてみると、子供の頃からの習慣とか大人が何気なく口にする当たり前のような知識、常識が如何に大切か、またそのような常識、慣習として根付いていたものが、近年では如何に欠落しているかがよく分かります。
畳の部屋を掃いたり掃除機をかけたり拭いたりする場合は、畳の目に沿ってする、ということが大原則です。畳は左図のように編まれており、短辺に平行に目が通っています。縁なしの畳もありますが、普通は長辺のほうが畳縁で包まれていて、短辺には縁はありません。
このような畳の特性を考えると、拭き掃除をする時には畳の目に沿って拭かないと、畳表のい草がささくれ立って痛んでしまいますし、ゴミが取れるどころか、畳の目の間にがっちりと入り込んでしまいます。
年寄りの小言のようで、今更感が一杯で大変申し訳ないのですが、大学生や社会人レベルでも、一緒に掃除をする段になると余りにこういう面は欠落しているので、念の為に書いておきます。
まあ家は全部洋間のマンションで、学校の教室も雑巾がけではなくモップしか使ったことがないので、仕方ないと言えば仕方ないのですが、どだい雑巾を絞ることの出来ない若者が大勢存在します。
水を浸した雑巾を片手に持ち、もう片手で絞るのではなく、キュッと握り締めるだけなのでビチャビチャ…。更に床を雑巾がけするとなると、うまくツツツツ〜…と進むことが出来ずに、キュ…キュ…キュ…ツルーッ!(ドタッ!)と床に長く伸びてしまう人が後を絶たず。まあ日本人だと出来る子も居ますが、外国人だとまず100%やりますね。漫画のようですが、実際に目の前で現実に何度も再現されてしまうと文句も言えなくなってしまい、1から教えるしかなくなります。
という、道場での日常の一コマでしたが、結局は畳とか板張り、障子・襖の日本家屋というのは、こういう天然素材の特性とどう付き合っていくか、というのが一つのテーマでもあるので、畳の話は良いきっかけかもしれません。
畳の敷き方の基本というのは、単に言葉の語呂あわせとか迷信の類ではなく、畳の形状、い草の特性をうまく使いこなし、それが逆効果にならないように配慮する、ということです。
例えば代表的な例で床の間に対しての畳の敷き方、出入り口に対しての畳の敷き方の決まりがあります。
床の間に対しての敷き方 | 出入り口に対しての敷きかた |
図で見ると、「ふーん…」と思うだけかもしれませんが、「畳の目」ということで考えると、縁起が良いとか悪いなどの話ではなく、ごく当たり前に、こうしないと危険、こうしないと畳が傷む、ということです。床の間というのは普通は一間=畳一枚の長さがありますから、それに対して畳を平行に敷かないと、半分だけ畳の目が逆になってしまいます。
床の間というのは一番位の高い場所でもあり、大切な飾り物を置いたりもしますので、それに対して半分だけ畳の目が違っていると、見苦しくもあり、お世話をするのに不都合でもあります。見た目も光沢が違いますし、足袋で歩いた場合などは半分づつ滑り方が違って危険です。もし水などがこぼれてしまった場合でも、半分づつ拭き方を変えなければなりません。咄嗟の場合にこれは不都合です。
更にこれが出入り口になりますと、もし畳の目が逆方向だった場合、最も頻繁に人が行き来して摺り切れたり汚れたりの率の高い出入り口には、非常に具合の悪いことになります。
短い辺のほうを出入り口に持ってきますと、出入りするごとに畳の目と逆方向にこすれるわけですから、すぐに汚れて擦り切れます。擦り切れたのをそのままにしておくと、足の弱い人、子供や年寄りなどは引っかかって転びかねません。
祝儀敷き、不祝儀敷きというのは、早く言えば結婚式か葬式か、冠婚葬祭の中では喜びごとかお悔やみごとか、ということです。これも、出入り口の延長で畳の目に沿って考えればすぐに分かります。
祝儀敷きでは普段生活する時と同じように、畳のへりを互い違いにします。どこにもバッテンが来ないように敷きます。一方、不祝儀敷きでは、出来るだけ同じ方向に並べます。実はこれも、「不祝儀」というからには葬式の時しかこの敷き方をしてはいけないのだろう、と思いがちですが、これも畳の目に沿って考えれば分かります。
葬式の時には皆整然と並んで同じ方向に歩いてお焼香をし、遺族にご挨拶をし、同じ方向へと帰ってゆきます。一方、婚礼や何かのお披露目の時などには、皆楽しそうにあちこちに出向いては談笑し、動きも不規則な場合が多いものです。
お葬式の時にはできるだけ同じ方向に進みやすいように中央部分は歩く方向に沿って畳の目が流れていたほうが都合が良いものです。畳の角が四つあわさってバッテンになるというのは、十字が良いとか悪いとか言う以前に、畳のヘリがちょっと浮いていたりすると非常に危険なものですが、中央部分を同じ方向に並べるメリットのほうが、一部に十字が出来るデメリットよりも大きいということなのでしょう。
もともと不祝儀敷きという言い方があまりよろしくないので、何十畳という大広間はほとんど同じ方向に向けて敷きますので、不祝儀敷きになっています。このように広い部屋は、畳替えや虫干しなどでいったん畳を上げると、元に戻すのが面倒だという理由もあるでしょう。更に、集まる人が同じ方向に向いて進むとなると畳の目も同じ方向を向いていたほうが都合が良いという理由もあるでしょう。
更に更に、何か大広間で演じる人の立場になってみて下さい。筆者だけかもしれませんが、裸足で演じる種目は、床や畳の目の方向というのはものすごく重要です。材質によってもすり足になるかベタ足になるかが分かれ目で、動きが全然違いますし、そこにもってきて、目が一定方向ではなく互い違いになっていると、非常にやりづらいものです。唯でさえ緊張している本番の時に、不安要素が増えることになります。これは、人前で何か動いて演じたことのある方なら、理解していただけるかもしれません。
また個人的な話になってしまいましたが、要するに、畳の敷き方というのは、縁起が良いとか悪いとかの話ではなく、畳の目に逆らわないようにうまく使うという、完全に合理的な話なのです。
一般住宅で不祝儀敷きにすることはまず無いと思いますが、家具の置き方、部屋の使い方など、迷った時には畳の目に沿って使う、ということを原則にしておけば、間違いないでしょう。
ヒノキの床材と「檜舞台」について★今回、畳の話だったので、この機会に、床に使われる木材について、今後なかなかチャンスもないと思いますので書いておきます。天然木材を使う時には、いろんな好みもあると思いますし、予算や手に入り易さも関係すると思いますが、一般的にはヒノキが高級材とされています。 ヒノキはお風呂にはいいと思うのですが、居室や廊下にははっきり言って不向きです。どうしてもヒノキが高級だという認識がありますし、「檜舞台」という言葉もありますので、いつかはヒノキの家に…という方もあると思いますが、筆者ならば別の素材にします。これが公共性のある建築とか耐久性を第一に考えるならば別ですが、年を取ってからくつろぐ為の終の棲家ならば、ヒノキはやめておかれたほうが良いと思います。それは筆者が、ヒノキの床の剣道場で非常に苦労したからです。 試しに「檜舞台」という言葉を検索してみて下さい。いろんな回答が出てきますが、おおむねどれも、一流の人しか檜の舞台には立てなかった、檜の舞台で自分の力量を見せる晴れの舞台、という風に肯定的な褒め言葉として捉えているようです。 しかし実際には、ヒノキの床というのは非常に人に厳しい材質で、固く冷たいです。筆者が通っていた道場は、長いこと杉の床だったのですが、杉は柔らかく暖かく、とても稽古のしやすい道場でした。しかし柔らかいだけに傷つきやすく、何十年も酷使していると、あちこちトゲが出てきて危険になったので、張り替えることになりました。杉がよかったのに何でヒノキになったかは、まあ人間関係でいろいろあるのですが、とにかくいきなり固く冷たい床になったので、冬でも裸足で稽古している身としては非常に辛く、許可を貰っては剣道足袋を着用する始末。 寒くなると更に固くツルッツルになり、すり足で進むと滑って筋を痛めそうになるわで、適度に表面を毛羽立たせる為にサンドペーパーをかけたりと、それは大変でした。まああんまり言ってはいけないことなのですが、実際問題としてせっかくのヒノキの床が仇になってしまったわけで、やはりこれは、使ってみた人でないと分からないことです。 俗に言う檜舞台という言葉は、あれは晴れの舞台という意味なのは確かですが、同時に、余り力の無い修行の未熟な者には容易に踏むことを許さない、人に厳しい舞台という意味でもあるのです。いや、辞書に書いてあるかどうか、そんなことは知りませんが、現実問題として事実です。 高級材でもあり、固いので耐久性も高く、練達の士しか踏まない大きな劇場にのみ許された材質だったのは確かです。しかし、一般の人が住宅に使用するには不向きだと思います。 檜舞台に立てるのは夢かもしれませんが、ヒノキの床は普段の稽古にはあまり向きませんし、生活にも向きません。特に体に直接当たる床材には全く不向きで、お年寄りや子供さんのあるご家庭にとっては、決して優しいものではないと思います。 どこかでこの話をしていたら、バレエダンサーの方が、そう言えばバレエのレッスン場がヒノキで、やはり冷えて困るし怪我も多い、と言っておられました。 西洋で言えば、高級で美しくはあるが人には優しくない大理石の床のようなもので、お使いになる場合には、それなりの心積もりが必要だということでしょう。建築関連業者からも一般の方からもまず出ない話だと思いますので、ここで書いておきます。 |
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