風水学講座:目次

五行で考える歌声の質・その1


若い頃からずっと、ロック音楽漬けの生活をしている。前は家事をしながら聴くのが常だったが、ロックと一番相性が良いのは掃除かな。洗い物とか料理は水音がうるさくてダメみたい。
しかしウォークマンが出てからは、ことさらに音楽を聴くのに時間を取らなくても、歩きながらや電車の中で聴けるようになったので、布団の中で音楽聴いていて夜が明けるなんてこともなくなった。
最近は稽古やスポーツクラブの行き帰り、はたまた歩いたり走ったりの最中にiPODを使用しているので、ペースが作りやすい。
あとは、泳ぎながら使えるiPODやウォークマンがあれば、もっと長距離スイミングが上達するのではないかと思うが、どうせスポーツクラブや公営プールでは使用禁止になるだろう。
咽喉の弱い筆者にとっては、空気の乾燥している季節は水泳が一番有難いのだが、どうしてもスイミングとなると着替えや髪の毛を乾かすのに一定の時間がかかってしまうので、忙しい時には足が遠ざかりがち。

筆者は扁桃腺持ちで呼吸器が弱いので、秋になるといつも警戒フラグが立つ。
激しく読経の荒行をしていた頃などは、咽喉に血マメが出来て、咳き込むと鮮血が飛び散ることが珍しくなかった(コワ)。今でも口内炎が出来たりすると、咽喉に飛び火しないよう、注意を怠らないようにしなければならない。
近年は武道の気合で鍛えているので、だいぶ咽喉も丈夫にはなったが、咽喉が一種のアキレス腱でもあるので、まだまだ油断はできない。


読経で声を出す意味

読経で思い出したが、読経の効能というのは、今回の話に関係が深いので、先にそれを少し説いておきたい。
なぜ読経をするのかというと、それは経典に書かれた修行の中で、代表的なものだからだ。

風水で説くところによると、人間は五行五気で成り立っているが、仏教のほうでは眼耳鼻舌身意の六識になる。仏教でもいろんな説があるのだが、この六識というのは「外界とのつながり」に於いての分類のしかただ。

この世の中で生きていて、自分が自分として存在するには、身体器官を活動させ、他のものとのつながりを認識することでしか、自分というものが成り立たない。つまり、単独では何も感じることはできないし、「自分」として存在することができないのだ。
このあたりのことは、「自我」というものの認識のしかたがいろんな哲学によって考え方があるし、ひいては「神」の存在にまで論が波及してしまうので、筆者の専門ではない。
いまのところ、とりあえずは「体も心も、おてんとさんや天地自然からの借り物だよ」という程度の認識でよいだろう。

眼耳鼻舌身意というのは、天地自然(人間界を含む)との係わりに於いて、その媒介となる身体器官とその作用、とでも述べておこうか。

読経の修行が大切なのは、この眼耳鼻舌身意を総動員してする修行であるからだ。
眼で経典を見て、舌と咽喉を使って発声する。大きな声を出すので、鼻や口で大量に呼吸する。自分が発声した読経の声は自分の耳に返ってきて、更に波動となって全身に浸透する。もちろん読んでいるのは経典なので、その内容も意識に影響を及ぼす。

このように、読経の修行というのは、眼耳鼻舌身意の全て…全身全霊を使ってするので、修行の基本とされるのである。

さて、この読経だが、お経を上げるにも上手い人とそうでない人がある。
どうも見ていると、上手い人というのは基本どおりに、一字一句を揺るがせなく、手抜きせずに同じ調子で発声している。あまり上手くない人というのは、変に節をつけたり、自分なりの調子や抑揚をつけてマイペースで発声していることが多い。
自分の癖を残したままというのは、ある意味では自分の楽な範囲でしか読経していないということなので、あんまり上達しないし、修行にもならないような気がする。仏教的な言い方をすると、「業」が浄化されにくい、ということになる。
現代は根性出して頑張るのが流行らないのか、短期間で「この仕事は向いていない」とか「やってみたけどできなかった」とか、結論を出すのがすごくイージーな気がする。

仕事がそうだから、お金にならない修行のほうはもっとその傾向がある。何でもそうだが、常に自分の力よりも少し上をめざさないと、今の自分より向上することはできない。
合気道の世界なんか見ているとほんとうに稽古が甘くなったな、というのがはっきりしている。筆者の関係している道場では、白帯から茶帯(黒帯の一つ手前)になる時には、審査で坐技が大きな比重を占めるので、審査前には坐技の特訓で、100%必ず、膝が擦り剥けるまで稽古をしていた。
胴衣のズボンが血に染まり、2〜3日もすると膝には薄くカサブタが出来るのだが、その頃にはまた稽古なので、一発でカサブタが剥けて血が出る。審査本番では「本部道場の畳に血をつけないように」、と注意されるが、それでもどうしても本番中に出血してしまうことが後を絶たない。
無理するな、頑張り過ぎるな、というのは、この程度のことは当たり前、ということを前提にしての話なのに、最近はトンとそういう光景は眼にしない。

読経で咽喉を破って声が出なくなるなんてのは当たり前の話で、その為、「大きな声で読経する場所がないので、何となく口の中でつぶやいてみるだけでもいいですか?」「自分なりに読んでみるだけでも効果があるのでしょうか?」というのは、残念ながらNGというしかない。
とすると、読経の環境に恵まれた僧侶がプロであって修行がしやすく、環境が整っていない一般人はなかなかまともな読経は出来にくいのは当たり前の話、ということになる。しかし、僧侶になるには読経の試験があるので、家でやる気のない人には出家もできないことになる。
時々、事業で失敗し家庭も崩壊、もう何もする気が起きない、特に何の能力もないので、いっそのこと出家して寺にでも入ってしまうか、なんてことを言う人があるが、そんな投げやりな態度では、出家なんて到底出来ないのである。お坊さんに失礼である。

ついでに誤解のないよう言っておくと、読経に縁のない方は、お経は独特の抑揚とか読み方があるのだろう、と思っておられる方があるかもしれないが、そんなものはない。一字一句を誠心誠意、腹の底から発声すればよいので、節をつけるのは声明(しょうみょう)とか和讃(わさん)である。

声明・和讃は読経とは別のもので、一種の宗教音楽とでもいう分野のもので、必要な儀式の時には、ちゃんと研修を重ねた専門の方が出てこられる。ここは読経の修行の話をしているので、とりあえず声明・和讃は、一般人の修行には縁のないものだ。

こういうことを考えつつ、いろんな読経の声を聴いていたら、前、人相学の上で声というのはどういう分類になるのかと思い、調べてみたことを思い出した。


声の五行分類

声に関する資料は少ないのだが、手元の資料では、声の五行は次のようになる。


これ以外にもソプラノ、アルト、テナー、バリトンの別によっても、ある程度の性格が分かるそうだ。
また、体型と声にも密接な関係があるそうで、慎重の高い人は声が低く、首が太く背の低い人は高い声の場合が多い。
顎や頬骨の張った人は、比較的良い声の持ち主が多いそうだ。

声によって運勢がどうのこうの、というのは、ちょっとそれだけでは乱暴な気もするが、運勢が変わる時に声も変わるというのは珍しくないし、声の徹りがよいかどうかというのは、気力体力とも密接な関係があるので、それなりに根拠はあると思う。

まだまだいろんなことが書いてあるのだが、人相関連で難しいのは、暦で干支を見たりする場合のように明確な基準や数値が提示できないので、どの人がどの程度どうであるのか、文章では伝えることが難しいことだ。
このような話をしても、受け止め方に個人差が大きすぎて、まるきりピント外れの結論を出されても困る。
従って人相関連は、オフ会など、直接見て話をする機会がないと教えていないのだが、なかなか面白い材料なので、身近な人達をあれこれ思い浮かべて考えてみる。

特に筆者の場合、道場に一般人とはかなり違う特徴を持った人達が多いので、材料には事欠かない。身近で2メートル前後の大男が何人も居て、しかも直接稽古するという経験をしてる人は多くはないだろう。


鋭くカン高く、遠くからでもよく聞こえる声…これはバッチリ、ボスである(笑)。
息子は少し声がくぐもっていて聞き取りづらい。自分でも仕事の上で困っているらしく、発声練習の本などを読んでいたが、あれは口の開け方からして練習しなおさないと無理だろう。まあ、基本が技術者なので、喋ることにはそんなに気を使わなくてもいいと思うのだが。二人の弟も似たようなタイプだ。

道場の大男達は、確かにみんな声が低く、くぐもっている。稽古の後、一緒にお茶を飲みに行っても、だいたい前かがみになって話しないと聞き取りづらい。
大男の中でも、対照的に甲高くややヒステリックな大声を出すタイプが少数居るが、確かに技も切れるし目立つ。
知り合いで、見た感じはもっさりしているのに、話をしている時に興奮したりすると妙に声がひっくり返る人がいるが、彼はかなりやり手で着実に発達している。

自分なりに観察してみると、木性声と土性声はすぐに分かる。火性の声というと、上記の分類ではかなり冴えないタイプらしいので、逢ったことがあっても印象に残っていない可能性が高い。
吉相らしい金性声と水性声は、これ!といった人が思い浮かばない。それなりに響きの良い声なのだろう。アナウンサー的にこれみよがしに模範的な発声をする人達はあまり参考にならないので、日常生活をしていて良い声だな、という人がいたら、今後注意しておこうと思う。

自分のことを言うと、若い頃はかなり良い声だと言われることが多かった。教室で小さな声で話してても、あなたの声だけは遠くからでも分かる、と言われていた。朗読を学んでいたので、けっこう鍛えていたせいもあるのだろう。
しかし、アルコールに親しむようになってからは、けっこう声が変わった。天性の声が少しハスキーになってきたので、それはそれで独特な良い声だとしばしば言われていたが、最近は声のことよりも気合のほうが気になる日々である。
自分の命式や先天的なものから見て、たぶん金性の声だと思うのだが、その時の状態によってコロコロ質が変わる部分が多いように思う。それでも、くぐもった声しか出さない人達からすると、明らかに徹る声を出せるし、スパンスパンと切り裂くような話し方をすると言われるので、大筋は金性の声と判断して良いと思う。

さて、声の質で一番気になるのは、やはり歌手である。次の章では歌手の声質を考えてみたい。

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2009年11月記述

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