このサイトのトップページで、一時、タイトルの上に、「運命のヒーリング」という紹介をマーキーで流していたのですが、最近、消去処分にしてしまいました。ついでにIEの附属機能であるマーキーそのものも嫌になって、やめてしまったのにお気づきでしょうか。
あの「ヒーリング」という言葉が、どうも西洋かぶれみたいな感じがしだした為でもあるのですが、なんだかカラーセラピーと結びつけられそうな気がして、止めてしまったというのが真相です。
風水とカラーセラピーを勝手に関連づけられる方はけっこう多く、カラーセラピーで風水を教えることもあるそうなのですが、この場を借りて断言しておけば、風水とカラーセラピーには、何の拘わりもありません。
色がついているから、色に関係のあるものは全部関係があるのだろう、というのはそれこそ色眼鏡で、筆者の独断と偏見と能力の範囲内で、この誤解をきっぱりと説いてみたいと思います。
風水にも、確かに色が出てきます。一白水星とか七赤金星とか、九紫火星という風に、それぞれの名前には色がついています。ですが、これは色彩そのものというより、自然界の働きを端的に色で表現しただけのことで、どちらかというと、抽象的な意味合いの方が強いのです。
もともと東洋では、密教の方で、「五大」(ごだい)という概念を色で表します。五大とは「地・水・火・風・空」という、一切の物質の構成要素のことで、洋の東西を問わず、こういった概念を色で表すのは便利ですし、理にも適っているので、よく使われます。
風水で九星に冠した色は、この五大とは少し分け方は違いますが、自然界の現象やこの一切世界の働き、構成要素を色で端的に表した点では、ほぼ同じです。
風水というのは、これらの東洋思想をルーツとしますが、カラーセラピー(オーラソーマ)はもともとユダヤ教カバラの魔術の一種で、色彩心理学を応用して、ユダヤの法術を知らないうちにみんなにかけてしまおう、ということが目的です。
その証拠に、本格的なカラーセラピーでは、必ずカラーボトルをイギリスから輸入しています。ボトルの中身の液体の成分がいわゆる「聖水」のようなものなのか、ただの色つき水なのかは知りませんが、少なくとも、香水とか薬効成分とか調味料ではないようです。
日常的な用途としては供さない物であり、またその色彩そのものの効果によって、ヒーリング効果を期待するものでもないようです。どうも私が見たところ、カラーセラピーというのは、色彩心理学の名を借りているように見えても、全く別もののようです。
風水もカラーセラピーも、間に色彩心理学という一般的な概念があるため、関係があるよ、ともっともらしく言われれば、女性などは信じてしまいやすいでしょう。ですが、筆者が運命を根本的に改善するために、写経などの修行をおすすめしている立場からすると、いわば風水とカラーセラピーは商売仇(?)みたいなものかもしれません。
全く違った理念の上に立っているものを、色がついているというだけで、関係があるかのように論じられるのは、甚だ不本意といわざるを得ません。
カラーセラピーは、色彩心理学を隠蓑のようにしているので、女性が飛びつきやすいのですが、そろそろコピー文化から脱却されては如何でしょうか。
美しい言葉に騙されないためにも、ことの本質を見極めることが大切ですが、なぜ皆さんが勘違いするのか、少し分析してみましょう。
それでわざわざこんな章をアップするわけですが、東洋思想を宣伝するのに、西洋文明の最たるコンピュータとインターネットを駆使するというのも、我ながらアッパレ?
そもそもインターネットというのは、アメリカ合衆国が、戦争の非常事態に備えて、独自の通信網を整備しようとしたことが発端なのに、その機能を使って、アングラサイトとかカルト集団のホーム・ページまでできてしまうんだから、便利な世の中といえばいえそう。
それならインターネットが、ネット開発国の不利益の為に使われることだってあり得ます。その結果、戦争に負けちゃうかもしれません。それは、ネットじたいは理念と持ったものではなく、ただのツールだからです。
でも、戦争の為に開発されたものって多いです。我々の身近なものでは、腕時計なんかそうです。昔は腕時計というものはなくて、全部懐中時計でした。
ですが、戦場で兵士が、いちいち懐中時計を出してパチンと蓋を開いて時間を確かめる、という悠長なことをしていたのでは、急場の間に合わないので、腕時計が考案されたものです。
ですが、腕時計という便利なツールが戦争の為に開発されたといっても、それじゃあ、平和主義で戦争反対の人は腕時計は絶対否定で、腕時計をしている人は好戦的か?と、まさかそんな非難をする人はいないでしょう。
ネットや腕時計と同じことで、色彩心理学というものは、ただの分類の学問で、一種のツールです。思想、理念というのはそれを使う側にあるので、何も色彩心理学に罪がある訳ではないのですが、このあたりをきちんと整理して認識しておかないと、思わぬ落とし穴に落ちてしまいます。
次の段階で、例えば刃物の場合を考えてみましょう。
刃物というのは、それじたい、「何かを切る為のツール」です。一本の出刃包丁が腕の良い板前さんの手で、絶品の刺し身一皿をしつらえることもあれば、何かの恨みによる一家惨殺事件に使われることもあります。この出刃包丁じたいは、ただの「切る物」であり、それ自身に思想はないので、有用な目的に使うか、悪用するかは、使う側にあります。
ところが、オートメーション機械による大量生産で作られた刃物には、思想も意志もありませんが、これが誰かの手に一定時間触れますと、ただの物質ではなく、生命を持つものになる場合があります。
それが、あまり目的意識も生命力も強くない人が触れたのであれば、なまくらはなまくらのままで、別に何のこともないでしょうが、何かの強い「気」を持った人であれば、触れられた物質にも、それが乗り移ります。生命を持つものになります。
刃物の場合であれば、日本刀などはその傾向が強く、刀鍛冶は刀を打つときに身を清めますし、「刀は武士の魂」とも言います。その切れ味の良い日本刀が、みんな名刀政宗になればいいですが、タマにちょっと道を踏み外して、妖刀村正になることだってあります。
刀に代表されるツールにこういう精神性を強く認めているのは、日本独特の文化の背景があります。
私は母方の姓が高木ですが、「高い木」というのはまさに神道の姓です。古来、日本では神は高い木に宿るとされ、神はなかなか眼に見えないので、樹木そのものが御神体として扱われてきました。
そのせいなのか何なのか、家は別に神職でも何でもないのに、私が子供の時に受けた教育も、「草には草の神、野原には野原の神、厠には厠の神がそれぞれいらっしゃるので、日常、失礼のないように生活しなければならない」というものでした。
ちょっと感覚が古いですが、同じ年代の人に聞いても、まったくそんな話は聞いたことがないそうなので、お年のせいだけではないようです。
そのためいつも、「トイレに入る時には、黙ってスッと入っていきなりジャーッとやらずに、必ず『エヘン』とか『コホン』とか、『これから行きますよ』というサインを出してから行きなさい」という、奇妙な躾を受けていました。なんかバカみたいですけど、まあ、そう言われればそうかな、といちおう思っていましたが。(今は、忍び足で相手の裏をかいてやるのが趣味です)
これなども、まさに物に神が宿る、山川草木の自然界そのものが神だ、という文化の一種で、物質と精神の完全な融合、といって良いかもしれません。
そのためなのかどうか、脳死問題でも、日本の宗教界は、ほとんど臓器移植には懐疑的なようです。いくら移植可能な臓器だって、もとは個人の魂の一部と思えば、他人様の体内に移植されたのでは居心地が悪くて、拒絶反応おこしたくなるのも無理はない、というところでしょうか。もっときつい言い方をすれば、魂の一部が蹂躙されるような気分なのかも知れません。
ただ、脳死判定などの世界的流れは、やはりユダヤ教の物質万能主義から来たもので、臓器も人体のツール、能力もツール、科学もツールなので、今回例に上げた色彩心理学が、何かの目的に利用されるのも当然なのでしょう。
風水もまったくそれと同じことです。思想や理念がなければただのツールであって、形や色などの外側だけを見て終わりです。そういう風水では、外側の相から生きた人間の運命を観る、「相」の学問とはなり得ません。
形を整えてよしとするのであれば、そんなものは建築設計、インテリアコーディネーターに任せておけば良いので、何も東洋の智恵などと勿体をつける必要はないでしょう。理念を吹き込まれて生命を持つ風水でなければ、生命を持つ複雑な人間を包容するものとはなり得ません。
生命を持たせるというのがどういうことなのか、漠然としていて、よく分からないと思います。
皆さんが良く知っている例で、地図で経度と緯度を表す、経緯線というものを思い浮かべて下さい。経緯というのは、織物の縦糸と横糸のことです。縦糸が「経」で、横糸は「緯」です。
縦糸だけ、横糸だけでは、地図も織物も成り立ちませんね。緯度だけの地図ではいったい自分がどこにいるのか、南アメリカ大陸にいる積もりが、地球の裏側のアフリカ大陸にいるかもしれません。縦糸だけでは、織物はシースルーどころか、織物として成り立ちません。
この、経=縦糸に当たるのが理念、思想、精神です。緯=横糸にあたるのが、知識や学問、道具、肉体などの物質的なものです。
精神だけでは何も具体的なことはできませんし、肉体だけの存在だったら、サメのようなものです。両方がうまく噛み合ってこそ、良い仕事ができますし、悪い誘惑にも負けません。
譬えを間違えないようにして下さい。縦=経が理念、思想で、横=緯が物質、知識です。「経」という字は、それがそのまま「お経」ですね。
「無量義経」「妙法蓮華経」「観普賢菩薩行法経」「仏説阿弥陀経」など、すべて、「経」がついています。「易経」も経です。
ついでに「モルモン経」にも経がつきますが、あれは「モルモンけい」と読むそうです。それこそ、商売仇の仏教と一緒にされたくないんでしょうか?
「経」がつくということは、ある知識や学問を体系化して、一定の理念のもとに編纂したということなのです。何も、線香臭いイメージを持つ必要はありません。まあ、間違った理念で体系化したのでは、非常に危険なものになりますけれど、それは今回のテーマからは少しそれますので、突っ込みません。
知識を整理し、体系化し、生命の息吹を吹き込んで、有用なものに仕上げること、それが「経」の役割です。
人間に対しても、「一本筋が通っている」と言いますね。横糸にはそういう言い方はしません。縦糸と理念を忘れずに。
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