陰陽学は日常生活と宇宙の森羅万象、全てのものの根本理念です。皇室典範改正問題をきっかけに、男と女の違いやその役割を考えてみます。
先年、皇室にも41年ぶりに男子誕生ということでひと安心。お陰で、一時期世論を賑わせていた女性、女系天皇に関する皇室典範改正議論も、とりあえずは下火となった。
しかし、この2006年の男子皇族誕生によって、問題が根本的に解決したわけではなく、この問題はまたいつか再燃するかもしれない。
本棚を整理していたら、近くの神社で配布していた「皇室典範改正問題に関する神社本庁の基本見解」が出てきたので、この問題を陰陽学の立場から整理してみたい。
政治・宗教色の強い問題なので、筆者が個人的見解を述べるつもりもないし、何かの意図をもってある方向に誘導するつもりもない。しかし、近年しばしば、男女の立場というものについて、お問い合わせを受けることもあり、案外、めいめいが個人的な解釈を入れた為に曲がってしまった部分もあるようなので、改めて陰陽学や占術の立場からの見解を述べてみたい。
神社本庁の公式見解の要旨は、
「歴史的に、皇位は男系によって継承されてきた」
「男系による継承の歴史的な意義と重みを明確にし、安定的に皇統を護持する為の議論がなされるべきだ」
「天皇、皇族は憲法の基本的人権の【例外】であるから、一般人と同じく男女平等の観点で女系天皇を論じるのは不適切である」
ということで、つまりは女系天皇には反対であるということだ。
世間では「男の子が居ないんなら、女性の天皇でもいいじゃない」と言う声も多いようだし、事実、歴史上、推古天皇や持統天皇など著名な女性天皇も多い。
このへんは一般の認識には勘違いもあるようで、まず整理しておかねばならないのは、女性天皇と女系天皇は全く違うということだ。つまりは個人の性別よりも血筋が問題なので、「女性天皇」は過去にもあったが、「女系天皇」(にょけいてんのう)は歴史上実際には存在したことがない。
皇族の女性が民間に嫁いで子をもうけても、その子は既に皇族ではない。ただし、過去、天智天皇、天武天皇など、女性天皇の子が即位した例では、その子の父親(女性天皇の夫)も天皇か皇太子なので、その子も間違いなく皇族である。女性天皇の子であっても、男親の血筋が皇族であれば男系なのだ。
このへんまで来ると、男系、女系、という言葉の使い方が少し怪しくなってくる。
ひらたく言うと、その家の男性の血筋をひいていなければ、その家の子とは認められない。言い換えると、「女系」というのは、言葉だけあって実際には存在しない、と考えることもできる。
ある家が、一人娘に婿養子を迎えて子供をもうけても、その子は実際にはお婿さんのほうの血筋なので、その家の血筋ではない。
そうなると「うちは女系家族で、三代続けて婿養子です」というような場合、姓だけその家の姓を名乗っていても、もとの血筋はとっくに途絶えていることになる。
このへん、男の子に恵まれないけれど、家の苗字を誰かに継いでもらいたい、せめてお墓を守ることだけはしてもらいたい、というのは人情なので、あまり硬いことを言う気はない。庶民感情はそれはそれで構わないとは思うのだが、庶民感情にも案外「腹は借り物」という意識が流れているのではないだろうか。
ヒトゲノム解析研究がもっと進み、何が男性を男性たらしめ、女性を女性たらしめているのか、早く解明されるのを待ちたいところだ。
また、こと東洋占術となると、皇室典範に負けず劣らず、男女の別はシビアだ。
実は、風水というか、東洋学の理念は、基本的に男尊女卑である。男子が天で女子が地、男子が陽で女子が陰、という原則が絶対的に決まっている。
東洋学のセオリーどおり、人間を植物に例えて考えてみると、よく分かる。たぶん前にもどこかに書いたと思うが、男子=種、女子=土壌とするならば、種はどんな土壌に植えても、その種の本体は変わらない。
どんな土壌に植えても、ひまわりの種から薔薇は咲かないので、ひまわりはいつまで経ってもひまわりである。たまに、近い種類だとバイオテクノロジーで新種ができることはあるが、一足跳びにはできない。
ただし、その種に向いた土壌と向かない土壌との差はある。また、種だけでも土壌だけでも、立派な植物が育たないのは当たり前である。
というと、女子は主体性を持たないということになり、フェミの人から怒られてしまいそうだが、根の深い庶民感覚からして、女の子が生まれると「お前はどうせうちの人間じゃなくなるのだから」という感覚がどこかにあることからして、なかなかこの原則はひっくり返らないということだろう。
実は筆者自身にも、少しショッキングな経験がある。筆者には息子が一人居るが、この子を昔、ある霊能者が何気なく霊視したことがあった。その時、いともあっさりと、この子が子供の父親と縁の深い家系の出であることを言い当てられた。
実はこの子は、全く実の父親の名前も顔も知らないし、もちろん周囲の人も知らないので、父親の家系に関することは、筆者以外誰一人として知るよしもなかったのだ。
筆者の場合、たぶん少し特殊な因縁を持ち合わせていると思うので、単に実の父親の家系を言い当てたというよりも根の深いものがあるのだが、人間の種子とか魂というものは、どこか違う世界から舞い降りて来る場合もあるのではないか、という気もする。
少し話はそれたが、一般の人が自分の日常目に見える範囲で「女でもいいじゃないのー」と、簡単に言ってはいけないこともあるのではないだろうか。
東洋占術は、男女で命式が違う。毎年の干支を見ると、例えば2009年は「己丑」、2010年は「庚寅」だ。このうち干だけ取ると、2009年=己は陰、2010年=庚は陽だ。
陽干=甲、丙、戊、庚、壬
陰干=乙、丁、己、辛、癸
となっているが、陽干の年に誕生した男性は順運、女性の場合は逆運となる。
反対に、陰干の年に誕生した男性は逆運、女性は順運となる。一般的に順運の人は流れがスムーズで、逆運の人は何かと波乱が多いという傾向があるそうだ。もちろん個人によって違うが、年干の陽と陰に関してはそうだ。
いくら皇室典範が改変されようが、この陰陽の図式だけは変わることはないから、どんなシーンでも「男性は陽、女性は陰」という原則は決まっている。
たまに、「家の中での稼ぎ手は私で、夫は外に出て働いてはおらず専業主夫なのですが、それでも男性が陽なのですか?」という疑問もあるようだが、それでも間違いなく、男性が陽で女性が陰である。
これを勝手に変えて解釈したりすると、陰陽と天地が逆になってしまう。陰陽の法則は、お金を稼いでくるのが誰だとか、そんな人間の小さな都合で変わるものではない。もちろん、引越しの方位も、一家の主である男性中心で判断する。
えてして、半端にやり手の奥さんほど、自分を先にして夫がその他大勢の扱いになってしまっている場合が多いようだ。この辺りはマナーとか知識というよりも、人間の基本的な礼節を押えていれば、あんまりそういう発想にはならないのではないかと思うのだが。
なぜ天皇が男性(陽)でなければならないか、という問題に、もう少し陰陽学の点から解釈を加えてみると、それは陰陽の性質にかかわってくる。
易学では、全陽=乾=天であり、全陰=坤=地である。陰陽のマークは左図の通りで、もちろん白が陽、黒が陰である。この図から何が読み取れるかというと、陰陽はお互いに抱き合っているが、陽は常に上にあり、下へ下へと降りてゆく性質があり、陰は常に下にあり、上へ上へと上ろうとする性質があるということだ。
これを人間に置き換えると、天皇、国王、上司、父親など、陽の性質を強く持った人間は、常に目下の者に対して意識を向け、守り慈しもうとする性質があるということになる。高貴な人で、上昇志向が強くて自分ばっかり出世したがる人は居ない。
反対に、下に居る人間は常に上に上ろう、目立とうとする傾向があるが、どうしてもそのぶん、他を守ったり与え慈しむほうには気が回らない。
この原理からすると一般的に、男性のほうが繊細で優しくて、女性は気が強くて欲が深いのも、ある意味で当たり前なのかもしれない。天皇が陽の男性でなくてはならない、というのは、このへんの下世話な解釈をもってしても、当たり前なのではないだろうか。
それではどこまで行っても男のほうが偉くて女は陰にかすんでいなくちゃならないのか、と言われそうだが、またそれも、早とちりである。
東洋学の泰斗、安岡正篤氏の本で、とても良い一節を発見した。
「相対は相待である」
なかなか含蓄のある言葉だと思う。日本の神道系ではよく、言葉遊びとか語呂合わせっぽいものをモチーフにする場合も多く、筆者はあまりこういうのは好まないのだが、これはなかなかうまく意味がはまる。
陽と陰は全く正反対のものだが、陽は陰があるから陽なので、陰もまた然りである。陽を陽たらしめているのは、陰の存在であり、逆もまた然りである。
「相対」というと、対比、対立、相反を思い浮かべるが、実は相手がなければ自分もないのである。
陰陽とは元は「山の日向と陰」のことだが、山(陽)があるから谷(陰)があるので、陰は悪いものだと谷をなくしてしまったら、山も山ではなくなってしまう。
「あい対立するものであり、またお互いにあい待つものである」というのが、陰陽の心だろう。
これだけでは少し退屈なら、昔の仇討ちドラマでも想像してみるのはどうだろうか。相手はにっくき仇、陰のきわみの悪役である。こちらは正当な理由を持った、バリバリの正義の味方。もう、将来を嘱望された、陽の立場である。しかし相手も自分に負けず劣らず強い。簡単に仇討ちが終わってしまってはドラマにならないので、この場合は悪役のほうも滅法強い(笑)。
宿敵を追い求め、長年、切磋琢磨しつつ目的を遂げようとする。仇憎さがエネルギーとなり、仇討ちが人生最大の目的となる。
で、長年の艱難辛苦の後にやっと仇に巡りあい、目出度く目的を達成するのだが…この後は、言わぬが花でしょう。
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