「風水守護神の研究」で、風水的に吉相である四神相応の地ということを述べましたが、これを実際の土地にあてはめると、どういうことになるのか、少し研究してみましょう。
この章で述べる風水とは、個人の家の形とか、風呂場がどこにあるのか、というスモールスケールの風水ではなく、土地全体の地形から龍脈を見て気の流れを読む、ラージスケールの風水です。
一つの場所があると、周囲の地形、山脈の形状を眺めてみます。
山陵がうねうねと続く、これを「龍脈」と見立てます。するとその狭間には、あちこちに窪みや台地ができます。これが「穴(けつ)」といい、気の流れを養分として蓄え、人間が住みついて文化の発展する都市となります。
ここで皆さんは思われることでしょう。
「何だ、風水とは摩訶不思議な占いの類いかと思っていたけど、結局は天地自然の原理を応用した、人間工学とか、環境生理学のようなものにつながっていたのか」と。
そうなのです。じつは、今述べたような大きな視野の風水を、もっと実用的で身近なものとして、個人の住む家の形、方向などに応用してみたのが、個人的なことを占う、スモールスケールの風水となったのです。
ですから本当は、ラージスケールの風水の根本原理を全く理解しないで、「こっちの方向に黄色い花を置くと、お金が入る」などというのは、ナンセンスという他ないのです。
しかしそれでも、世間の人がどうしてもインテリア占いの類いに傾きがちなのは、やはり人間はどうしても、自分のことに一番関心があるせいだ、というしかないでしょう。
一般人は天下国家の趨勢よりも、どっちの方角で宝くじを買えば、より当たる確立が高いか、という方に流れがちですからね。
しかし、大地のエネルギーとその流れを読む「四神相応の地」については、広い視野で見てみると、風水発祥の地である中国と日本では、かなり事情が違っています。
ご承知のように、中国は土地が広く、その中でどこに都を構えるか、という「土地の選定」が大命題でした。いったん場所を選定してみて、気にいらなければ、また別の土地に移ることも比較的簡単です。
反対に日本は土地が狭く、地形が入り組んでいるので、風水的な条件には特殊なものがありました。
日本の風水とは、別の言葉で「治水」となります。
これは文字どおり、「水を治める」ことです。現在の二大都市である関東と関西も、そのふところにはいくつかの「暴れ川」を抱えこんでいます。日本の風水とは、いかに水と付き合い、水を飼い馴らすか、ということがテーマになっているのです。
大阪には、淀川と大和川という二つの川があります。
この二つの河川は、昔は合流して、大阪を水浸しにするほど荒れていました。
川と海とで、大阪の治水は非常に難しく、大阪の別名である「難波」とは、「手のつけられない難しい波」という意味です。
この「難波」を何とかして押さえ込み、ほとんど人工的な地形を築いたのが、現在の大阪市といっても過言ではないでしょう。大阪のあちこちに堀が多いのは、この治水工事の名残なのです。
さて、この難しい条件を備えた大阪で、風水的に一番重要なポイントとなったのは、上町台地です。
この場所は、大阪湾付近においては唯一の堅固な陸地でした。北から南にかけて伸びる龍脈となって、昔の大阪の地の一番重要な建物、霊地を懐に抱いて大阪の風水的な要となったのです。
この上町台地の一番北側に、渡辺町という地名があります。この土地は、渡辺党という、海上輸送をつかさどる人々の住む地域でした。
「わたなべ=わたりべ」で、渡辺という姓は、海上輸送に従事する人々の姓(かばね)です。海上輸送と水との付き合いは切っても切れません。
※ちなみに、「姓=かばね」というのは、その従事する職業によって、世襲で名乗るものであり、「氏=うじ」というのは祖先を同じくする血族が共通して名乗るものです。
氏に対して、その住んでいる地域や職名があてられることはありますが、本来はルーツを異にするものです。
この海上輸送の頭目が、かの有名な渡辺綱(わたなべのつな)です。
羅生門で鬼の片手を切り取って、平安時代の四天王の一人と数えられました。
じつは、「鬼」という言葉は、本来の意味は「強さ」のことです。「ナントカの鬼」といえば、その道に徹底する、その道に強い人を指しますね。
「鬼退治の英雄、イコール治水工事の責任者」とは面白いことです。よく民話には、悔い改めた鬼が里人のために、池を掘ったり、護岸工事のために働いた、というエピソードが出てきます。
鬼を退治し、飼い馴らすことと、人と物の流通を司り、社会の発展に寄与すること、これがある意味では「鬼退治」に共通しているようです。
この場合、大阪の鬼とは、暴れまわって手のつけられない、川、海、水そのものだったのかもしれません。
エピソードはこれくらいにしますが、大阪で唯一堅固な場所である上町台地には、北側から渡辺町、大阪城、難波宮、四天王寺、住吉大社と大阪の重要スポットが、軒なみ並んでいます。このうち、非常に興味深いのは大阪城です。
現在の大阪城のある場所は、もともとは、石山本願寺のあった場所でした。
石山本願寺とは、一向宗の大本山で、寺というよりも、まるで城砦と言ったほうがいいほど堅固な作りでした。石山の名の由来は、ここに大きな石が床のように敷いてあったからで、これは城を築くのに最適の条件です。
おまけに四方を川に囲まれ、中の島のように石山が聳えていたわけで、一向宗勢力と対立する信長に総力で攻められても、十年ものあいだもちこたえたのです。
信長はこの石山を攻めるのに、北側に本陣を築きました。北から南に流れる気の流れを断ち切る作戦に出たわけで、これはまさに諸葛孔明お得意の、奇門遁甲そのものです。
それでも十年も頑張り続けたというのは、宗教戦争の根の深さを感じさせて、不気味なものがありますが。
最終的には信長によって本願寺は焼き打ちされ、坊主皆殺しという結末を向かえたのは歴史の教科書に出てくるとおりです。
その信長は、やっぱりご本尊さまの祟りテキメンというか、今度は自分が京都の本門法華宗の本能寺で、明智光秀によって自刃に追い込まれるという結末です。
しかし、石山本願寺の地の利に目をつけたのは、さすが目はしの利く豊臣秀吉。
軍事基地としてはすこぶる優秀な条件に恵まれた、この地を放っておくテはありません。さっそく、自分の本拠とすべく、大阪城を建設したのです。
さて、問題の大阪城ですが、ここに不思議なネーミングを持つ井戸があります。「金明水」です。
じつは、これは徳川以降の名称であって、秀吉の時代には「黄金水」と呼ばれていたそうです。多数の風水師が、この金明水、黄金水が大阪城を守る龍脈のポイントだったのではないか、と推測しています。
この黄金水の名の由来は、この井戸は最初、毒を含んでいて使用に耐えない水だったので、秀吉が莫大な量の黄金をこの中に投げこんで、その毒を中和したのではないか、と言われています。
ついでに、金の冷却効果は、地下水脈の浄化作用にも役だったのではないか、という推測です。(筆者は、金で毒が中和できるかどうか、詳しくは知りませんが)
ここでついでに雑学を一講釈ぶっておきますと、中国ではこういう場合、水銀を投げ込みます。古代中国では、水銀が不老長生の妙薬として珍重されていたのです。
皆さん、エッと思われることでしょう。水銀は、水俣病をはじめとして、恐ろしい中毒を引き起こす、猛毒のはずなのに。
じつはこれは、時代背景とその時の状況によって、非常手段として使われた方法なのです。
古代中国は、戦争、戦争、それも大量虐殺をともなう、筆舌に尽くしがたいすさまじい戦乱の中で、国家の改編、統合が繰り返されていた時代です。
そんな中では、何年か先に症状の出る中毒よりは、たった今現在の飲み水の方が重要だったのです。腐敗し、微生物のウヨウヨしているような、ひどい水しかなければ、その中に水銀を投げ込み、その強力な殺菌作用によって、水を清めたのです。
毒をもって毒を制す、という訳ですね。
この方が、大阪城を金箔だらけにして「なんや、この金ピカが関西人の趣味かいな」と思わせる秀吉よりは、よっぽど現実的な気はします。もちろん、あんまり自分で飲みたいとは思いませんけれど。
とにかく「白髪三千丈」というように、中国は何でも表現がオーバーですから、慢性中毒に目をつぶって、致し方なく使う毒消しが、「先祖伝来・不老長生の妙薬」になってしまったものでしょう。ご参考までに。
さて風水でしたが、この金明水のあったのが、秀吉時代に築かれた天守閣の西側です。西はまさに「金」と「水」の方位です。西の定位である七赤金星というのは、易では「沢=水」の卦です。さらに、この場所を選定した最大の理由である「石山」の「石」とは、風水の五行では「金」に該当します。
同じ金星である六白金星は、水とも石ともあまり関係がありません。「天」の卦となります。
総力を挙げて建設した絢爛豪華な大阪城の守りとして、秀吉が、いかに「金」と「水」にこだわったか、またその背景に風水原理をよりどころとしていたか、ということです。
初代石山本願寺、二代目豊臣大阪城となったこの地は、さらに三代目の徳川大阪城として引き継がれてゆきます。この変遷は、いかに歴代の覇者がこの地にこだわったかを、如実に示していると言っても過言ではないでしょう。
家康は、秀吉が建設した、金箔づくしのあのきらびやかな大阪城を、跡形もなく取り壊した後、以前の二倍の大きさの、新大阪城を建設しました。
常識で考えれば、普通はああもったいない、と思うところをこれだけ徹底的に壊したのですから、全く違う構造の、「家康オリジナルバージョン大阪城」にしそうなものです。
ところが不思議なことに、幾つかのポイントだけは、秀吉の旧大阪城に見習って、そっくりそのまま、同じパターンを引き継いでいるのです。
一つは今述べた、金明水を天守閣の西側に作ったこと。これは、旧大阪城でも天守閣の西側に作られ、新大阪城でも天守閣の西側に作られました、ですから、井戸の場所は移動しています。
次は、本丸の南側にある空堀です。
風水では、南というのは北から流れてきた気を溜めて養分として、その地を発展させるポイントであり、気を溜め込むには水が良いとされています。
しかし、南の池水は大凶で、火と水の相争う相克関係のために、南に水があると目や心臓を患ったり、狂人が出る危険があります。
そこで風水の古書には、「南は湿地あるを良しとす」となっています。
筆者の解釈では、この湿地というのは「ジメジメした土地」のことではなく、草木を豊富に抱いた場所のことではないかと推測します。
水気を含んでドロドロ、ジメジメした土ではなく、植物の含む水気をたっぷり抱え込んだ湿原であれば、どこから見ても風水の理に適っています。ただしこれは、あまり背の高い植物ではいけないので、森や林やジャングルではなく、草原といったところでしょうか。
しかし、どっちにしろ湿地を人工的にこしらえるというのはなかなか難しいし、管理も大変です。
そこで代案として、南に空堀というのは、かなり風水の理にのっとっています。それでも、空堀にしておくには、東西の堀よりもここを高くしなければならず、大変な労力だったことでしょう。
東と西の堀には、ちゃんと水があります。秀吉も家康も、さすが天下の覇者となるほどですから、しっかり勉強して、優秀なブレーンを持っていたものでしょう。
大阪城には、他にもまだまだ謎があります。
それを風水の観点から見直してみると、面白いことが分かるでしょう。特に、いろんな場所のネーミングなどは、完全に風水に由来するものであることが、歴然としています。
今回はこれくらいにしておきますが、風水とはいかに歴代の覇者が重要視していたか、またその実現のために、膨大な労力を払っていたかが、分かろうというものですね。
※この章は、荒俣宏著・「風水先生」(集英社文庫)を参考にしています。興味のある方はご一読ください。
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