「写経の手引き」は以前から、思いがけず多くの方に反響を頂き、実践していただいている方が沢山おられます。
仏教コーナーを設けるにあたり、いろんな面白い説話をご紹介したいと思いますが、今回は私の大好きな、山本周五郎の作品です。
忙しい方が多くて、本の紹介をしてもそのうちに忘れてしまうと思いますので、ちょっと素人臭いですがタオがダイジェスト版を書きました。時間のある方は、ぜひ原作を読んでください。
寛永九年、初秋のことである。五十七人という、かつてないほど多くの罪人が、裸馬に乗せられて、鈴が森の刑場へと向かっていた。
沿道は、見物の群衆で、わき返るような騒ぎである。
「おそろしい数の罪人だな。いったい、どんな悪事を働いたというのだ」
「きくところによると、奴らは豊臣方の残党で、徳川幕府をひっくり返そうとして、謀反をたくらんだという事だ。それが知れて、一党ことごとくお縄になり、今日いよいよお仕置きという訳だ。」
番人の制止もきかず、馬上に縛られた罪人に向かって、石を投げる者もあった。この行列を見つめる群衆の中に、一人の女がいた。
年は十八、九であろうか、眉の剃りあとも青々と、まだ娘らしさの失せぬなかにも女の色香のただよいはじめた若妻だったが、二十九番目の馬が近づいて来るなり、顔色を変えて前の者を突きのけ、気が狂ったように、竹矢来のそばへ駆け寄った。
「あっ、又さんが。又さんが。」
「何だ、あの女は。あの罪人の知り合いか?」
「それは知らないが、あの男こそ、一番大それた罪人だ。何しろ仏様を彫る仏師のくせして、観世音菩薩の像の中へ、徳川将軍を呪う文句を刻みこんだという、ふてえ男だ」
女の名はお由美という。馬上に縛られた又七に、長いあいだ想いを寄せていたのだが、又七には相手にされず、今は他の男の女房になった、哀しい女だった。
刑場では、磔の柱にずらりと縛られた罪人の中の一番中央、左右どちらから数えても二十九番目という中央の柱に、その男、又七はくくりつけられていた。
又七は、懸命に叫び続けていた。
「待って下さい、私はこれっぽっちも、お仕置きを受けるいわれはありません。誰かの罠にかかっただけです。どうか、辰次を呼んで下さい。目明かしの辰次なら、私のことをよく知っています。きっと、私の無実を晴らしてくれるはずです」
顔見知りの役人が、又七の足を縛りながら言った。
「辰次は来ないぞ。この春、女房を貰ったばかりで、忙しいのさ」
「えっ、女房とは、いったい……」
「何だ知らないのか。ほら、前から口説いていた、あのお由美じゃないか」
それを聞くなり、又七の顔色が変わった。
「それを聞いて分かった。俺を陥れたのは、あの辰次だったのか。俺が生きている限り、お由美は自分の言うことを聞かない。それであの仏像に細工をして」
その時、刑場の端の方で、凄まじい悲鳴が上がった。磔の、最初の一人が、槍にかかったのである。又七は物凄い形相で、虚空をにらんだ。
「おのれ、俺はこのまま、死にはしないぞ。たとえ、この身は刑場の露となっても、こんな卑怯な真似をした辰次の奴を、許しはしない。生き替わり、死に替わり、呪ってやる」
また、次の絶叫が上がった。刑場の両端から順に、地獄の阿鼻叫喚と思うばかりに巌をも震わす叫びが次々と上がり、又七のほうにだんだん近づいて来る。
「呪ってやるぞ辰次! この又七、悪霊になってもお前にとりついて、必ず祟って、呪い殺してやる!」
また、断末魔の悲鳴がひときわ近づき、地獄の鬼の形相と化した又七は、憤怒のあまりぎりぎりと歯がみして、そのまま気を失ってしまった。
どれぐらい経ったのだろうか。襟すじへ、ぽたりと冷たい滴のたれるのを感じて、又七はわれに返った。夜だ。あたりは漆黒の闇である。
「ここはどこだ……」
つぶやいて手足を動かそうとするが、びくとも動かない。よくよく目を凝らして見ると、左右には磔の柱が立っている。
白い経かたびらを血に染めた罪人が、くくりつけられたままだ。自分もまたしっかりと、柱に手足を縛られている。もとの、鈴が森の刑場だった。
「俺は、生きている……なぜ……?」
又七は、不思議な思いにとらわれながらも、震える声を励まして、日ごろ一心に仏像を彫る時に口ずさむように、観世音菩薩普門品を唱えだした。
「或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊」
初秋の夜の寒さが身にしみる。裸の顔も手足も、白い経かたびらも、露でしっとり湿っていた。
その時、刑場に添った道に、提灯の火が近づいて来るのが見えた。
はじめは見回りの役人かと思ったが、急ぎ足に来る所を見ると、夜道をかけての急飛脚らしい。又七は大声で呼びかけた。
普通の者なら、ひとたまりもなく腰を抜かすか、逃げ出すところだろうが、それは夜道に慣れた急飛脚だった。それだけに腹も据わった者らしく、一度はぎょっとしたが、又七の姿を見つけると、おそるおそる近づいて来た。又七が訳を話して頼むと、
「へえ、不思議なこともあるものだな。お前さんの罪状の真偽はともかく、なるほど仏師だとすれば、磔にかかっていながら命を助かる、これこそ仏の利益というものだろう。年代記にもないような、珍しい話だ。
よし、私もこんな商売で、日ごろから道中無事でお役目を勤められるのも信心のお陰と、有り難く思っている。
ここはひとつ、仏様の手先を勤める気で、眼をつむってお助け申しましょう」
「ありがとうございます、ありがとう……」
明くる朝である。目明かしの辰次の家では、辰次とお由美がいさかいの真っ最中だった。そこには、又七の知らない事情があった。お由美が辰次の女房になったのは、又七が謀反の嫌疑をかけられて捕まった、後のことだったのだ。
辰次は、又七を助けるように便宜をはかってやるという条件で、お由美を女房にと望んだ。どうせ又七に相手にされないのを悟っていたお由美は、それで又七の命が助かるのならと、その条件を呑んだのだった。
「お前さん、私に約束したじゃないか。又さんを助けてやるからって。」
「俺だって、出来るだけのことはしたさ。だが、お上の采配は決まってしまったのだからどうにもなるものじゃない。しかしお前も、立派なことが言える立場かい。自分の焦がれる男を助ける為なら、嫌い抜いていた俺に身をまかせるなんて、売女のすることだ。そんなに嫌なら出て行くがいい」
「出て行けるものなら出て行きます。だけど……、だけどもう、私は身一つじゃないんですよ」
「なんだって……」
そこへ、手下の岡っ引きがとんで来た。
「大変だぜ、親分、昨日お仕置きになった筈の又七の死体がない」
「げっ、そ、そんな馬鹿な」
「それがどうも、仕置き漏れらしいんだ。昨日、あまりに罪人の数が多くて、最後の方は夜になってしまい、暗がりで一人一人よく確かめることが出来なかったらしい。
それと、仕置き役人がこんなにいちどきに、大勢の仕置きをしたのが初めてで、目がくらむほど疲れ果ててしまい、最後の方に残った又七を、仕置きしたかどうか、良く見なかったらしい」
辰次は青ざめた。自分の計略にかかったことを、又七がどうして気付かぬ筈があろう。
又七が豊臣の浪人に頼まれて、観世音菩薩の像を刻んだことは聞いていた。その浪人が謀反を企てた張本人として上げられた時、この計画を思いついたのだった。
又七が浪人宅に出入りがあったかどで調べられている間に、観音像を取り調べるという口実で、馴染みの大工に金を積んで、隠し胴を繰り抜き、将軍家を呪う文句を彫らせたのである。
そして、又七の事を心配するお由美を巧みに言いくるめて、早々と所帯を持ったのだった。
その後、辰次は八方手を尽くして、又七を探した。縄抜けの罪は重い。だがそれ以上に、辰次自身、又七がいつかは自分に復讐しに来るに違いない、という恐怖でいっぱいだったのだ。
注・この作品は、〔山本周五郎作・磔 又七〕のダイジェストです。
(新潮文庫刊、【与之助の花】収録)
文責:タオ<コピー・無断引用禁止>
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