正保五年のことである。又七が行方不明になってから、十五年経っていた。
上総一の宮の、とある宿に、辰次とお由美の夫婦は泊まっていた。安房の誕生寺を参詣した帰りに、遊山をかねての投宿だった。
そこで二人は、宿の女中に、近くの山の中に、珍しい行者が庵を結んでいることを聞く。
十二、三年前に住みついたその坊さんは、宗旨も、どこから来たのかもはっきりしないながら、庵にこもったきりで、高さ一丈もあろうかという仏像を刻み、すでに四体の像を彫り上げ、現在五体目にとりかかっているということだった。
その行者は、生臭ものはおろか米や麦も一切食べず、木の根と草の実だけを食べて生きているので、木食(もくじき)上人と呼ばれ、里人の信仰を集めているとのことだった。
辰次はそれを聞いて、不安にとらわれた。仏像を彫る、身元知れずの坊さん。この地方に現れた時期も一致する……。
辰次は次の朝、お由美に内緒でその山に登る。果たして……。
話に聞いた庵の側まで来て、辰次は足をとめた。
小屋の中から、読経の声が聞こえる。それはまさしく、十五年の間、夢に見てうなされた、又七の声だった。
「應當一心 供養観世音菩薩 是観世音菩薩摩訶薩
於怖畏急難之中 能施無畏 是故此娑婆世界 皆號之爲
施無畏者」
又七の仕事場で聞き慣れた、観世音菩薩普門品である。
辰次は、そっと中を除いた。まず目についたのは、初めて目にする、大きな四体の仏像だった。そして、ほとんど彫り上がったもう一体の仏像にとりついているのは、ぼろをまとい、枯木のように痩せこけて、頭髪も髭もほとんど真っ白になった、見知らぬ男だった。
だが、鑿をふるう男の手足は力に満ち、読経、唱名の声は、驚くばかり精気にあふれている。やつれてはいても、それはやはり、又七その人だった。
「又七、神妙にしろ」
「とうとう来たか。辰次。だが、ちょ、ちょっと待ってくれないか」
又七は、あと七日だけ待ってくれと、辰次に頼む。
鈴が森の刑場を抜け出した後、出家得度して世を捨てたが、ただ一つ、仏師として世に残る仕事をしたいと発心し、五智如来を彫り上げようと、決心した。
すでに四体は彫り上がり、残すは釈迦如来のみとなった。それも、あと数日で仕上がる。この釈迦如来さえ彫り上げれば、あとはもう、思い残すことはない。
「なるほど、私は、刑場から縄抜けをした。磔の柱に縛られた時は、俺をはかって殺そうとしたお前が憎くて、必ず怨霊となってお前をとり殺し、七生まで祟ってやろうとちかった。しかし、不思議な機縁で命を長らえてみると、そんな怨みよりも、もっと大事な仕事があるのに気がついた。
辰次一人を呪い殺して、何になる。それより、千年の後まで残る立派な仕事をして、仏の利益で助かった命を終えよう、そう決心をしたんだ」
いつの間にか入り口に、お由美の姿もあった。
「この一体が仕上がれば、私は喜んでお縄にかかろう。私は死んでも、この五智如来は残る。仏師又七の心は千年、万年経っても滅びることはないのだ」
お由美をその間見張りにつけておき、二人が逃げないことを信じて、改めて仕置きを受けることを約束させたのだった。
それから七日目の早暁、釈迦如来は見事に彫り上がった。
「又さん、どうか逃げてください。あなたがこのままお仕置きになるなんて、私は堪らない」
「どうして逃げる必要がある。ここまで生きて来られただけでも、仏の御加護だ」
その時、人の気配がして、辰次と一緒に、上役の町回り同心が入って来た。
「仏師又七はいるであろうな」
「はい、私が又七でございます。お待ちしておりました」
「神妙じゃ。お上のお達しを申し聞かしてやる。そのほう、お仕置き場より縄抜けをいたした罪、重罪ながら、不思議に処刑を免れ、その後出家致して道心堅固に五智仏を彫り上げし事、奇徳のいたり。
また一度はすでに刑を行われし者であるから、特におぼしめしを賜り、前の大罪御赦免とあいなった。よって、以後お構いなしとのこと、有り難くお受けいたすがよい」
又七、のけぞるばかりに驚いた。
「なお、これはいまだ内定であるが、そのほうの彫り上げた五智仏、芝高輪に一寺を賜って安置いたし、そのほう又七に、生涯住職を申しつけらるるとの内意である。仏像運搬の人夫諸費用、お上の支給とまで内定しておるぞ」
同心の言葉どおり、又七の五智仏は江戸へ運ばれ、芝高輪の普賢寺へ納められたのである。
又七自身は木食但唱(もくじきたんしょう)と名乗って、静かに読経三昧の生涯を終えた。
辰次はお由美との間に子までなしながら夫婦仲の悪かったのが、見違えるほど仲良くなり、まずは安楽に世を送ったと伝られている。
注・この作品は、〔山本周五郎作・磔 又七〕のダイジェストです。
(新潮文庫刊、【与之助の花】収録)
文責:タオ<コピー・無断引用禁止>
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